王座復権
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「デイブ・コーウェンス」の記事における「王座復権」の解説
プレーオフでは2年連続でニックスの前に敗退したが、コーウェンスにジョン・ハブリチェック、ジョ・ジョ・ホワイト、ベテランのポール・サイラス、8連覇時代を知るドン・ネルソン、若手ガードのポール・ウェストファルとセルティックスの陣容は充実していた。1973-74シーズン、コーウェンスは平均19.0得点15.7リバウンド(リーグ2位)の成績を残し、チームも前年度の好調を引き継ぎ、シーズン最初の37試合を30勝7敗、勝率8割を越えるペースで勝ち続けた。しかしシーズン後半に入るとチームの勢いにやや失速が見られ、最終的にはカンファレンス1位、リーグ2位の56勝26敗の成績を残したものの、プレーオフに不安を残した。しかしカンファレンス準決勝ではボブ・マカドゥー率いるバッファロー・ブレーブスを4勝2敗で降すと、決勝でニックスと対決。セルティックスは、ニックスのウィリス・リード、デイブ・ディバッシャーの負傷にも助けられ、この因縁の相手を4勝1敗で降し、セルティックスにとっては5年ぶりの、コーウェンスにとっては初のファイナル進出を果たした。 ファイナルで待っていたのはミルウォーキー・バックスだった。セルティックスとバックスは対照的なチームだった。218cmの支配的センター、カリーム・アブドゥル=ジャバーを擁するバックスは、彼とオスカー・ロバートソンを中心とした典型的なハーフコートバスケットのチームであるのに対し、206cmのコーウェンスを筆頭にスモールラインアップを敷くセルティックスは走るバスケットを得意としていた。サイズでは明らかに分が悪いため、セルティックスのコーチ、トム・ヘインソーンは、セルティックスがプレスディフェンスによって平面的なバスケットに持ち込めるかが勝利の鍵を握ると分析した。ヘインソーンの目論見は、バックスのガード、ルーシャス・アレンの故障によって大きな効果を発揮した。バックコートの相棒を失った35歳のオスカー・ロバートソンはプレスを集中して浴びてしまい、大きく疲弊を強いられたのである。バックコートでの戦いではセルティックスが主導権を握ったが、一方、インサイドではコーウェンスとジャバーの対決が注目を集めた。コーウェンスが新人の年、1歳年上のジャバーに成す術もなく58得点をあげられてしまったことを、多くの人々が記憶していた。第1戦ではセルティックスのプレスディフェンスが威力を発揮し、98-83でセルティックスが勝利した。しかし第2戦ではジャバーに第1戦の35得点に続いて36得点を許し、オーバータイムの末に96-105で敗北を喫する。コーウェンスはフィールドゴール13本中3本しか決められず、また第4Q終盤の勝ち越しを狙ったフックシュートをジャバーにブロックされるなど、最高峰のセンターの前に良いところがなかった。やはりセンター対決ではジャバーに分があるかに思われたが、しかし第3戦ではコーウェンスの逆襲が始まった。彼は外角のシュートを中心にバックスのゴールを襲い、ファウルトラブルのため32分しかプレーできなかったにも関わらず、30得点をあげてセルティックスを95-83の完勝に導いたのである。第4戦ではついにバックスのガード陣がセルティックスのプレスディフェンスを突破し、89‐97で敗れたセルティックスは再び勝敗を2勝2敗のタイに戻されたが、第5戦ではセルティックスの大黒柱、ジョン・ハブリチェックの活躍で96-77とセルティックスが圧勝し、再びシリーズを3勝2敗とリードし、いよいよ優勝に王手を掛けた。しかし第6戦ではダブルオーバータイムの末に101‐102で敗北し、シリーズの行方は最終第7戦に委ねられた。チームはジャバーに対してはダブル、トリプルチームで対応することを決め、第6戦をフィールドゴール16本中5本しか決められず不甲斐ない内容に終わったコーウェンスは、オフェンスに集中した。コーウェンスはこの大一番で28得点14リバウンドと活躍。102-87で第7戦を勝利したセルティックスが、5年ぶり12回目の優勝を決めた。 王座に返り咲いたセルティックスはビル・ラッセル時代に続く第二期ボストン王朝の建国を目指し、1974-75シーズンもリーグ1位タイの60勝22敗の成績を記録。コーウェンスは足の故障で15試合を欠場したものの、平均20.4得点14.7リバウンド(リーグ2位)4.6アシストの成績を残し、初めてチームのリーディングスコアラーとなった。オールNBA2ndチームに加え、オールディフェンシブ2ndチームにも初選出されている。しかしプレーオフではカンファレンス決勝において、やはり60勝をあげたエルヴィン・ヘイズ、ウェス・アンセルド擁するワシントン・ブレッツの前に2勝4敗で敗れ、ファイナル連覇はならなかった。
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王座復権
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連覇が途切れたことは、ボストン王朝崩壊を意味したかと言えば、そうではなかった。1966-67シーズンも優勝を逃したものの勝ち星は60勝と優勝を狙うには十分な力を有していることを証明しており、未だ他チームには危険な存在だった。 チームの大黒柱とヘッドコーチという重責を担うラッセルは、1967-68シーズンを12.5得点18.6リバウンドの成績で過ごし、リバウンドが平均20本を下回ったのはルーキーイヤー以来となり、平均出場時間もNBAキャリア2年目の1957-58シーズン以来となる平均40分割れとなるなど、33歳を迎えていたラッセルはシーズンを通してプレーをセーブした。チームは前年を下回る54勝28敗の成績に終わったが、76ersに次ぐデビジョン2位の座を堅守した。 プレーオフではデビジョン準決勝でデイブ・ビン、デイブ・ディバッシャー擁するデトロイト・ピストンズを破り、デビジョン決勝で宿敵の76ersと対決した。ここで両雄の対決は思わぬ所から横槍を受ける。1968年の4月4日、公民権運動指導者のキング牧師が暗殺されたのである。この悲劇を受けて、セルティックスと76ersの先発選手10人のうち8人が喪に服するため試合をキャンセルしたいという申し出があり、結局試合は予定通りに行われたが、「感情を欠いたような」試合と評されたシリーズ第1戦は、127-118でセルティックスが勝利した。しかし第2戦以降は76ersが3連勝を飾った。過去に1勝3敗からシリーズを覆したチームはおらず、セルティックスの2年連続デビジョン決勝敗退が濃厚となったが、ここからセルティックスの新エース、ジョン・ハブリチェックが驚異的な巻き返しを演じ、セルティックスが2連勝を飾ってシリーズは第7戦へと持ち込まれた。第3戦、第4戦はチェンバレンのマッチアップをウェイン・エンブリーに任せており、記者団からはあるいはラッセルは疲労しているのではと言われていたが、第7戦ではそのラッセルが大活躍を見せる。ラッセルはこの大一番でチェンバレンを後半フィールドゴールわずかに2本のみに抑えると、試合終盤ではクラッチプレイを連発。試合残り34秒でセルティックスのリードを98-96に広げるフリースローを決めると、続く76ersにオフェンス、チェット・ウォーカーのシュートを見事にブロックし、今度はルーズボールを拾ってそのままシュートを打ったハル・グリアのミスショットをしっかりとリバウンド。敵ゴールに目掛けて走るサム・ジョーンズにパスを送り、セルティックスの真骨頂とも言える速攻で勝利を決定付ける得点を演出した。セルティックスはこの試合を100-96、シリーズを4勝2敗で76ersに勝利し、2年ぶりのファイナル進出を果たした。 セルティックスと76ersの死闘をテレビ観戦していた西の王者、レイカーズは、セルティックスの勝利を願っていた。彼らにはセルティックスの方が制し易い相手と踏んでいたのだ。しかし彼らは過去、5回にわたってセルティックスに苦杯を舐めさせられたことを忘れていた。セルティックスは油断した旧来のライバル、レイカーズを4勝2敗で破り、1年前に明け渡した王座を見事に奪回した。ラッセルはキャリア12年で記念すべき10回目の優勝を果たし、両手の指全てに嵌められるほどのチャンピオンリングを手に入れたの同時に、黒人としては初の優勝チームのヘッドコーチになる栄誉も手に入れた。ラッセルの名声も頂点を極め、この年のスポーツ・イラストレイテッドのスポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。レイカーズのジェリー・ウェストは「もし私がリーグのバスケットボール選手から一人を選ぶなら、私の一番の選択はビル・ラッセルでなければならない。ビル・ラッセルは我々を驚嘆させることを決して止めようとしない」とラッセルを絶賛した。
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