引退とその影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 14:55 UTC 版)
見事にチャンピオントロフィーを持ち帰ってきた我らのチームを迎えるべく、セルティックスの凱旋を3万人のボストン市民が迎えた。しかしそこに、この場に居るセルティックスのどの選手よりも、多くのチャンピオンリングを持つラッセルの姿はなかった。 ラッセルの引退はあまりにも突然だった。そしてそれは誰もが羨むような優勝しての引退という形だったが、しかし記録の上では華やかであっても、実際のところラッセルの引退は華やかでも、穏便でもなかった。ラッセルは一方的に引退を宣言すると、ボストン市民には何の恩もないと凱旋パレードにも参加せず、そしてセルティックスとの関係を一切断ち、ボストンには困惑のみが残された。その後ファンに対し何のコメントないままだったラッセルが、スポーツ・イラストレイテッドに1万ドルと引き換えにインタビューに応じたことに、ボストンのファンと記者たちは裏切られたと感じた。 苦楽を共にしてきたアワーバックですらも、ラッセルから引退を知らされていなかった。それはアワーバックのチーム経営史において最大の誤算の一つとなり、アワーバックはこの年のドラフトでジョ・ジョ・ホワイトを指名するという過ちを犯してしまう。ホワイトはその後セルティックスの第二期黄金期とも言える時代の中心選手となるので、アワーバックの指名は決して失敗であったわけではないが、ラッセルが引退するのであればまずは何よりも彼に代わるセンターを手に入れなければならなかった。結果的にラッセルが引退するのと同時に、13年の間に11回の優勝と栄華を極めたボストン王朝は一瞬で瓦解する。ラッセルが引退した翌シーズンのセルティックスは34勝48敗に沈み、優勝を争うどころかプレーオフ進出すら逃したのである。 またNBAに13年に渡って続いたボストン王朝時代に幕を降ろしたラッセルの引退は、NBAに新たな時代の到来を告げ、後のリーグの流れを形作った。すなわち、群雄割拠の戦国時代である。この年のセルティックスの連覇を最後に、NBAに再び連覇を果たすチームが現れるのは1980年代後半であり、チャンピオンチームは毎年のように入れ替わっていく。 なお、セルティックスには引退を一切告げていなかったラッセルだったが、サム・ジョーンズはチームメイトは皆彼の引退をそれとなく察しており、そのことがチームを団結させ、この年の優勝に繋がったと語っている。
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