ハイドリヒ副総督就任までの経緯
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「エンスラポイド作戦」の記事における「ハイドリヒ副総督就任までの経緯」の解説
1939年3月14日から3月15日にかけて、ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、チェコスロヴァキアのエミール・ハーハ大統領をドイツの首都ベルリンへ召還し、ハーハ大統領に対してまずスロヴァキアを独立させ(独立スロヴァキア)、さらにチェコの部分をドイツ国に編入することを強要した。抗う力を持たないハーハ大統領は併合を認める署名をした。3月16日にこのチェコのドイツ編入領土は「ベーメン・メーレン保護領」と名づけられることとなった。4月5日にはコンスタンティン・フォン・ノイラート男爵がベーメン・メーレン保護領総督として同地に派遣された。また同日、ベーメン・メーレン保護領総督付次官(警察業務を司る親衛隊及び警察指導者)としてカール・ヘルマン・フランクも派遣された。以降しばらくの間、この2人によってベーメン・メーレン保護領は統治された。 第二次世界大戦中、ベーメンはルール地方と並ぶナチス・ドイツ最大の軍需工業地だった。アルベルト・シュペーアによればドイツ軍の戦車の3分の1、軽機関銃の40%はベーメンで生産していたという。ところが、総督ノイラート男爵の政策は、融和的すぎてストライキや抵抗運動が多発し、同地の兵器生産力が20%近く落ちていた。 業を煮やしたヒトラーは1941年9月19日から24日にかけてノイラートとフランクを自身の本営「狼の巣」へ呼び出し、チェコ人に寛容すぎる政策を叱責の上、ノイラートに長期休暇を命じた。また、ヒトラーはノイラートに代わる統治者としてラインハルト・ハイドリヒを副総督に任命することを告げた。ノイラートはこの際にヒトラーに総督職の辞任を申し出たが却下され、ノイラートは形式的に総督に残留しながら休職処分を受けるという形になった。1941年9月27日、正式にハイドリヒをベーメン・メーレン保護領副総督に任命するヒトラーの辞令が下り、ハイドリヒは翌28日にプラハに着任した。
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