ベーメン・メーレン保護領副総督
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「ラインハルト・ハイドリヒ」の記事における「ベーメン・メーレン保護領副総督」の解説
1941年9月23日、ハイドリヒはヒトラーによりベーメン・メーレン保護領副総督に任ぜられた。ベーメン(ボヘミア)はルール地方と並ぶ当時のドイツの大工業地帯であった。アルベルト・シュペーアによれば、ドイツ軍の戦車の三分の一、軽機関銃の40%はベーメンで生産していたという。ところが、当時の総督コンスタンティン・フォン・ノイラートは、現地住民に対して融和的な政策を行っていたため、サボタージュ[要曖昧さ回避]や抵抗運動が多発し、同地の兵器生産力が20%近く落ちていた。このような惨状に業を煮やしたヒトラーは、政治警察を配下に置き手腕を発揮していたハイドリヒを同地に送り込んだ。なおノイラートは、彼の副総督就任をヒトラーから聞かされた際に、総督職の辞任を申し出たが却下されたため、形式的に総督に残留しながら休職処分という形になった。 ヒトラーの期待通り、ハイドリヒは卓抜した行政手腕を発揮した。彼は9月27日にプラハに到着すると同時にチェコ全土に戒厳令を敷き、即決裁判所を設置させた。首相アロイス・エリアーシを見せしめに逮捕して死刑判決を下し(その後、「市民が問題を起こさなかった」というチェコ市民への温情を装う理由で執行が延期にされた)、またゲシュタポに反体制派やヤミ市場の捜査を徹底させ、数週間にして主だった反体制勢力を領内から一掃してしまった。ナチスの法的手続きさえも無視して拘束者を即銃殺するよう命令を出すこともあった。また、公開処刑もしばしば行っている。特にヒムラーがプラハ訪問中だった1941年12月15日に、プラハ聖堂前の広場で大規模で派手な公開処刑を催した。1942年2月4日にはハイドリヒ自身が秘密演説の中で次のように述べた。 約90の短波放送を補足した。死刑判決は400ないし500、拘束者数は4000ないし5000に及ぶ。死刑あるいは拘束を受けた者は(抵抗運動の)付和雷同者ではなく指導者である。 繰り返される逮捕と処刑によりやがてハイドリヒは「プラハの虐殺者」の異名をとるようになった。 一方、抵抗運動は概して中産階級のインテリ層から起こるもので、労働者階級からではないことを知っていたハイドリヒは、労働者階級の懐柔策をとった。労働者の食糧配給と年金支給額を増加させ、チェコで初めての雇用保険を創出させた。また、カールスバートのリゾートホテルなどを接収し、労働者の保養地として開放した。ハイドリヒ夫妻は毎日のように労働者の代表団をプラハ城に招待して歓迎し、代表団の陳情によく耳を傾けた。貴族出身のノイラートがブルジョワ層にのみ支柱を求めたことと対照的であった。 飴と鞭を巧みに使い分けるハイドリヒの他民族支配は成功を収め、ベーメン・メーレンは次第に安定に向かった。ヒトラーもこの状況に満足し、続いてフランスおよびベルギー総督に内定させていた。次の任地視察のため、1942年5月6日にハイドリヒはパリを訪問している。もっとも、ハイドリヒ自身はヒムラーを飛び越えて内相の座を狙っていたといわれる。 ハイドリヒはベーメン・メーレンで「人間味ある総督」に見せようと心がけていた。記者に妻リナや幼い子ら(クラウス、ハイダー、ジルケ)などと一緒にいる写真をよく撮らせていた。また一家は重々しいプラハ城に定住せず、郊外にある田舎町パネンスケー・ブジェジャニ(チェコ語版)の屋敷で暮らした。専用車であるコンバーチブルタイプのメルセデス・ベンツ 320A(英語版)も常にオープンカーの状態にし、プラハ市民に自分の姿がよく見えるように走らせることが多かった。威圧的にならぬよう護衛車両をつけることもあまりしなかった。ヒムラーはプラハ訪問中にハイドリヒの個人警護が少なすぎると懸念し、警護をもっと増やすよう命じており、またハイドリヒの警護に無頓着な態度を頻繁に戒めていたが、彼は最後まで耳を貸さず、結果的にはこれが命取りとなった。
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