ベーメン・メーレン保護領総督付次官
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「カール・ヘルマン・フランク」の記事における「ベーメン・メーレン保護領総督付次官」の解説
1939年4月28日にドイツに併合されたチェコ(ベーメン・メーレン保護領)の親衛隊及び警察高級指導者となり、30日にベーメン・メーレン保護領総督付次官に任じられ、ユダヤ人や反体制分子の迫害にあたった。同地の総督ははじめコンスタンティン・フォン・ノイラート男爵であり、フランクは4月に代理となっている。 だがノイラートはチェコ人に宥和的にすぎ、フランクはチェコ人から憎悪の対象となっていたため、1941年9月にラインハルト・ハイドリヒが副総督に任命され、同地の実権も彼に移された。フランクはハイドリヒのポジションを狙っていたため、はじめはハイドリヒと対立することがあったが、すぐにハイドリヒにすり寄るようになり、副官として常に傍らに控えるようになった。 そんななかの1942年5月27日にハイドリヒが在英チェコ亡命政府の暗殺部隊に襲撃されて病院へ搬送される事件があった。フランクはハイドリヒの副総督職を臨時に代行し、ただちにチェコ全土に戒厳令を敷き、ハイドリヒが死亡するまでだけでチェコ人157人が銃殺されている。ハイドリヒが死ぬと再度この地の実権を狙ったが、ヒトラーとヒムラーは、ハイドリヒの後任としては秩序警察長官のクルト・ダリューゲを選んだ。新副総督のダリューゲとフランクは、総統命令に基づき、チェコ人に大々的な報復を開始。9月1日までに3188人のチェコ人が拘束され、うち1357人が即決裁判の末に処刑された。特にリディツェ村が徹底的に破壊された。
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