ベーラ4世との争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 08:10 UTC 版)
「イシュトヴァーン5世」の記事における「ベーラ4世との争い」の解説
イシュトヴァーンは再びトランシルヴァニアの領地に戻り、1261年にイシュトヴァーンとベーラは共同でブルガリア帝国を攻撃する。しかし、ベーラはイシュトヴァーンの弟スラヴォニア公ベーラとボヘミア王家に嫁いだ娘のアンナを寵愛しており、イシュトヴァーンとベーラの関係は緊迫したものになっていた。 イシュトヴァーンはボヘミアに奪われたスティリアに代わる支配地を要求し、ベーラと対立していた貴族を味方に付けた。エステルゴム大司教フュレプとカロチャ大司教スマラグドの仲裁で、1262年の夏にポジョニでイシュトヴァーン父子は講和の取り決めを交わした。この取り決めに基づいて、イシュトヴァーンはドナウ川の東岸を領地に組み入れ、「若王」の称号を与えられた。だが、イシュトヴァーンとベーラそれぞれの支持者は互いに敵対勢力を攻撃しあい、2人の和解は一時的なものに終わった。 イシュトヴァーンが母マーリアと妹の領地を併合すると、ベーラはイシュトヴァーン討伐の軍隊を派遣した。イシュトヴァーンの妻子がベーラの軍に捕らえられると、彼は一時的にフェケテハロムに撤退しなければならなくなったが、ベーラの包囲を破り反撃に転じる。1265年3月にIsaszegの戦いでイシュトヴァーンは決定的な勝利を収め、勝利の後にベーラと講和した。 1267年にエステルゴムでハンガリー内の中小貴族が集会を開き、会合で決定された請願(1267年法令)がイシュトヴァーンとベーラの両方に提出された。内戦状態にあるハンガリーの統制を回復するため、イシュトヴァーンはベーラとともに請願を受諾した。 和解から間もなく、イシュトヴァーンは1261年に続いてブルガリアに侵入し、ヴィディンのデスポト(領主)・ヤコブ・スヴェトスラフに従属を認めさせた。また、イシュトヴァーンは外国からの支持を得るために、ローマ教皇の最大の支持者であるアンジュー=シチリア家のカルロ1世と二重の婚姻関係を結んだ。最初の縁組ではイシュトヴァーンの娘マーリアとシチリアの王子カルロの婚姻が、2度目の縁組ではイシュトヴァーンの息子ラースローとシチリアの王女イザベッラとの婚姻が成立した。
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