ベーメン・メーレン保護領担当国務相
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「カール・ヘルマン・フランク」の記事における「ベーメン・メーレン保護領担当国務相」の解説
1943年8月、それまでも実権を奪われていた保護領総督フォン・ノイラートは正式に罷免され、同時に、病を得ていたダリューゲも保護領副総督を含む全官位を辞した。新総督としては前内務大臣のヴィルヘルム・フリックが就任したものの、これは前内相というフリックの地位から見ると事実上の左遷人事であり、彼も保護領の実権を握ることはできなかった。同年8月20日、フランクはヒトラー内閣に新設されたベーメン・メーレン保護領担当国務相(大臣待遇)に就任し、同保護領の実権をほぼ一人で掌握するにいたった。10月28日にベーメン・メーレン保護領のドイツ赤十字指導者となる。1944年2月25日よりズデーテンラントの親衛隊及び警察高級指導者となる。 大戦末期におこったプラハ暴動の際にもフランクは残虐な鎮圧を行い、ラジオでは「暴動を起こした者は血の海のなかでおぼれ死ぬこととなる」などと述べている。さらにそのあと連合軍が本格的に接近してきたのを知った人々が、それを歓迎しようと続々と通りに出てくるとフランクはドイツ軍と警察の部隊に発砲を命じ、多くのチェコ人を虐殺した。
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