第二回無総督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/19 06:41 UTC 版)
詳細は「en:Second Stadtholderless Period」を参照 16世紀にアムステルダムの民衆と市内に雑居していたレヘントは、ヘーレン・ケイザー・プリンセン運河に沿って新しく造成された居住区に豪邸を建てたり、アムステル川などに沿って別荘を構えるようになったので、17世紀末には夏の参事会がほとんど開かれなくなっていた。ウィレム3世が1702年に死んでから、州間・都市間に対立が深まっていたが、レヘントは無政府状態につけこみ汚職を流行らせた。コルファ家はヨアンが1716年に死んでからも栄えた。 18世紀からは東西インド会社にユダヤ人が資本投下するようになった。オランダ自身も外債引受に精を出した。なかんずくオーストリアは17世紀末からの顧客であり、1714年にはシレジアの税収を担保に年利8%で250万グルデンを起債した。1719年からアムステルダム証券取引所にはイギリスなどの諸外国の債券と株式が上場した。1734年にオーストリアが先の8%外債を6%へ借り換えた。1736年にやはりシレジア税を担保に5%利付き外債が発行された。1737年にはボヘミアの税収を担保にした起債が連邦議会の反対にあった。そのかわり、ユトレヒト州議会の保証で250万グルデンが発行された。1739年にはオーストリア専売のイドリヤ産水銀を担保に5%利付き外債が発行された。こうしてオーストリア・ロシア・トルコ戦争の軍事費が調達された。 ロンドンのオースティン・フィアーズ(Austin Friars)はユグノーが集住するコロニーであったが、それは閨閥と共同事業により独自の社会として成長し、南海泡沫事件の後イギリス債券投資を本格化させた。ネック準男爵(Joshua van Neck)、ミルマン家(ex. Richard Muilman)、マシュー・デッカー(Matthew Decker)などがいた。ロシア公債取引の窓口を営んだ者もいた(Herman Isaac de Smeth)。ネック準男爵の娘はトーマス・ウォルポール(Thomas Walpole)と結婚した。1733年以降のコロニーはイギリス債券市場の市場価格データをアムステルダムの会社に送り続けた(Jan Isaac de Neufville & Comp.)。オランダのあらゆる階層の貯蓄部分がイギリス債券に集中投下された。オランダのシェアは英国内で機密あつかいされた。資金はオーストリア継承戦争やジャコバイトの鎮圧に使われた。こうした軍需が一部の生産資本や商業資本を潤おした。
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