イドリヤ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 06:57 UTC 版)
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面積: | 293,7km² | |
市長: | ダミアン・クラプシ Damjan Krapš |
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人口 - 男性 - 女性 |
11.990人 5.885人 6.105人 |
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平均年齢: | 35,58歳 | |
住宅区域: - 世帯数: - 家族数: |
29,87m²/人 4.169 3.255 |
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労働者: - 失業者: |
5.571人 296人 |
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平均月収 (2003年8月): - 総計: - 正味: |
224,063SIT 144,020SIT |
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大学生徒数: | 506人 | |
スロベニア共和国統計局、 2002年度の国勢調査より(*印の項目を除く) |
イドリヤ(Idrija)はスロベニアの市。水銀鉱山と織物で知られる。
オーストリア統治下のころはイドリア(Idria)と呼ばれていた。1497年に水銀が発見され、1580年に政府が鉱業生産を始めた。
この鉱山は伝説によると、500年前に田舎に住むバケツ職人が少量の水銀を発見したことに始まる。
イドリヤは、水銀が液体と硫化水銀の両方の状態で産出する世界でも数少ない場所のひとつである。
現在、アントニウスの中心坑道と呼ばれる坑道の上層部が観光用に使われており、さまざまな時代の鉱山労働者の等身大模型が展示されている。地下400メートルにある下層部は現在採掘されていない。
関連項目
外部リンク
イドリヤ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 16:13 UTC 版)
「水銀の遺産アルマデンとイドリヤ」の記事における「イドリヤ」の解説
詳細は「イドリヤ」を参照 イドリヤはスロベニア西部のプリモルスカ地方の鉱山町で、1490年代に水銀鉱山が発見された。16世紀の時点ではその鉱山で水銀があまり多くは採れなかったが、17世紀以降増加し、1689年には2000キンタール程度の水銀を産出していた。しかし、同じ時期のアルマデンは1万キンタール程度、ウアンカベリカは15000キンタール以上であり、前述のようにその位置付けは補助的なものだった。 イドリヤの水銀はヌエバ・エスパーニャに回された時期が多かったが、17世紀前半においては、ヌエバ・エスパーニャで水銀が不足している際にも、ペルーに優先的に回されていた。これはヌエバ・エスパーニャがスペイン王に支払っていたのが10分の1税だったのに対し、ペルーが5分の1税を支払っていたことなどと関係があったのではないかと指摘されている。 前述の通り、あくまでもアルマデンとウアンカベリカの補助的位置付けであったが、18世紀にウアンカベリカの生産量が下落すると、これを上回るようになった。水銀生産量は時期による乱高下が激しいが、参考までにいくつかの数値を示しておくと、1760年ごろのアルマデンの年平均生産量は9334キンタール、ウアンカベリカのそれは5901キンタール、これに対してイドリヤの1760年の生産量は3224キンタールであった。しかし、1790年ごろの年平均はアルマデンが16800キンタール、ウアンカベリカが2268キンタールに対し、イドリヤの1790年の生産量は10967キンタールであった。世界遺産としての価値を調査したICOMOS(後述)の評価書では、アルマデンに次いで世界で2番目に大きい水銀鉱山と位置付けられている。この鉱山での採掘はアルマデンに先んじて1994年に停止されたが、イドリヤがそれまでの約500年間に世界に供給した水銀の量は、全体量の約8分の1に及ぶと見積もられている。 イドリヤでは、以下の物件が世界遺産を構成している。
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