土地の開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 05:40 UTC 版)
土地はフランス統治時代から開拓され続け、特にデトロイト川とセントローレンス川沿いは開拓された。しかし、アメリカ独立戦争後の1784年に王党派逃亡者と軍事関係者によって土地の開拓が加速された。その結果、1791年のアッパー・カナダ設立以前に、1763年宣言に従って、多くの土地が先住民族からイギリスに割譲されてきた。この土地はケベック政府によって調査され、特にセントローレンス川沿いの東オンタリオは西部郡区に、ローワー・カナダでは東部郡区として調査された。 初期の市政は地区の創設とともに始まった。特にウエスタン地区(今日のブラントフォードを含む)、イースタン地区、ゴア地区(今日のハミルトンを含む)およびホーム地区(今日のトロントを含む)で顕著であった。 アッパー・カナダでは1793年7月9日に奴隷制度反対法が成立した。 組織的な開拓地地割が決められたが、牧師保留地は別にされた。また1804年に設定されたエリー湖北岸のタルボット開拓地は例外とされた。 この開拓地地割は米英戦争の後、セントローレンス川、オンタリオ湖、エリー湖の岸を越えて広がった。1828年、イギリスはアッパー・カナダの初代移民局長官にA.C.ブキャナンを指名した。この肩書きは当時の植民地における移民に関してイギリスの中央政府寄りの考え方を反映しており、特に新しく到着する者の多くがイギリスから来ていたことによっていた。 戦争を経験したイギリス軍の古参兵は無償で土地を提供され厳しい冬を耐えて定着した。戦争の前の期間とは異なり、移民はヨーロッパ、特にイギリスからであり、戦争前は大挙してやってきたアメリカからではなかった。非常に安価な、時には無償の土地が移民の気を引くための広告代わりに提供された。これは財政的に厳しい場合でも行われた。大西洋を渡る旅費も木材を運ぶ船の帰り便を利用することによって安価に抑えられた。1830年代初期、人口は毎年10%の率で増え続けた。1820年代には、多くのドイツ語を話すメノナイト移民がペンシルベニア州からアッパー・カナダのグランド川地区に移住し、やはりドイツ語を話すアーミッシュに加わった。彼らの子孫の多くは現在でもペンシルベニアドイツ語を話している。 地下鉄道 (秘密結社)のルートを使って何千もの逃亡奴隷がアメリカからアッパー・カナダへ入っていると見積もられている。 アッパー・カナダは1840年の連合法で政体としては消え、ローワー・カナダと合併してカナダ連合を形成した。これは主としてアッパー・カナダとローワー・カナダでそれぞれ1837年と1837年から1838年に起こった反乱に対応するものだった。1867年のカナダ連邦が造られた時、カナダ連合は再び元の境界で分けられオンタリオ州とケベック州となった。 アッパー・カナダという名前は幾つかの化石化した形で残されている。顕著なものはアッパー・カナダ法律協会、アッパー・カナダ木材、アッパー・カナダ・カレッジ、アッパー・カナダ・モール(オンタリオ州ニューマーケット)およびアッパー・カナダ醸造会社である。 1796年、首都が初めてニューアークからトロントに移されたとき、アッパー・カナダの議会議事堂はパーラメント・ストリートとフロント・ストリートの角にあった。この建物は米英戦争の間に燃えてしまい、再建されたものも事故で再び焼失した。この場所は結局放棄されて、議事堂は西に移された。2001年、元の議事堂の残骸が発見された。今日、開発するか歴史的な場所を解明するか、保存主義者と歴史家の間で論争が繰り広げられている。現在は政府がその場所の大部分を賃貸している。
※この「土地の開拓」の解説は、「アッパー・カナダ」の解説の一部です。
「土地の開拓」を含む「アッパー・カナダ」の記事については、「アッパー・カナダ」の概要を参照ください。
- 土地の開拓のページへのリンク