土地開発と農地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 13:51 UTC 版)
李朝期より実施されていた地形と気候に合わせた稲作に代わり、陳朝では堤防の建設に代表される、自然環境を改良する紅河デルタの開拓が推進された。堤防建設の結果、13世紀より紅河デルタでは夏季冠水地帯の水田化が進み、開発に伴って旱魃よりも洪水の被害が多くなる。 国によって食糧の増産が推奨され、未開の土地の開拓と並行して灌漑、水利工事が実施された。1248年の鼎耳堤の建設のように堤防、運河の工事が国によって推進され、中には明宗のように自ら工事を監督する皇帝もいた。堤防の建造は河堤使によって監督され、農地に堤防を建造する場合には国家による補償がされた。昇龍西南の「西氾濫原」の輪中化が進み、輪中の内部には耕地と新しい社が作られた。国家の建設事業とは別に、沿海部のデルタ地帯では王侯貴族による私有地の開発が進み、堤防の建設や干拓といったデルタの改良事業には王侯が所有する奴婢が使役されていた。 村落の公田が国内の田地の大半を占めており、公田からの税収が国の収入源となっていた。公田は農民に分け与えられて税が徴収されたが、中央政権の弱体化に伴って、王侯貴族や官僚によって農民の土地は彼らの私有地に組み込まれた。連続する飢饉と重税に苦しむ農民は税と賦役から逃れるために田庄に逃亡して奴婢として使役されるか、あるいは地主の下で耕作と地代の納付に従事する借田(ターディエン、小作)農民に身を落とした。
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