貧民救済と土地の開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 03:15 UTC 版)
明治元年前後、美濃国武儀郡牧谷(現・美濃市)の諸村は連年凶作に見舞われた。村は食糧難となり、村民は草木を食して飢えを凌ぐほどまでに陥り、窮乏のあまり土地を後にして離散する者が相次いだ。この現状を知った領主の尾張藩主・徳川慶勝は深くこれを哀しみ、老臣・田宮如雲を介して幸周に救済方策を相談した。そこで幸周は考えた挙句、自己の所有する不毛の荒野に窮民を移住させ、開墾して将来は自立させるという案を企てて直ちに実行した。 窮民は、古くから牧谷地方で行われてきた和紙づくりを行ったが、農業に精通する者が少なかったため、幸周が耕作のやり方と教え、さらに住宅、衣食、農具を与えるなどした。さらに、自らが檀家・氏子である寺社の使用を許可するなど手厚く援助した。また、この開墾地で収穫された農作物は耕作者の所得とし、年貢は開墾者に煩わせることなく幸周自らが負担した。 あるとき開墾者たちの間でこの土地を譲り受けるための相談がなされ、幸周に払い下げてもらうよう嘆願したところ、幸周は売価を買受人各自の自由、あるいはほぼ無償に近い売価で村民に分譲して提供した。
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