パレスチナ総督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 10:03 UTC 版)
「スライマーン (ウマイヤ朝)」の記事における「パレスチナ総督時代」の解説
正確な時期は不明なものの、アブドゥルマリクはスライマーンをジュンド・フィラスティーン(英語版)(パレスチナの軍事区)の総督に任命した。この地位はアブドゥルマリクが以前にマルワーン1世の下で務めていたものだった。スライマーンはアブドゥルマリクの叔父にあたるヤフヤー・ブン・アル=ハカム(英語版)と異母兄弟にあたるアバーン・ブン・マルワーンに続くジュンド・フィラスティーンの総督となった。また、701年にはメッカでハッジに関連する各種の儀式を引率した。アブドゥルマリクは705年に死去する前に長男のアル=ワリード(ワリード1世、在位:705年 - 715年)を後継者に指名し、さらにスライマーンがアル=ワリードに続く後継者に指名された。スライマーンは715年まで続いたワリード1世の治世の間を通してパレスチナの総督職に留まり続けた。そして恐らくは現地を支配していたヤマン系の部族の族長たちと密接な関係を築いていた。また、現地のヤマン族と関係を持っていた神学者で以前にアブドゥルマリクによるエルサレムの岩のドームの建設を指揮していたラジャア・ブン・ハイワ・アル=キンディー(英語版)とも強固な関係を築いた。ラジャアはスライマーンの家庭教師となり、高位の補佐官にもなった。 スライマーンはイラクとイスラーム国家の東方地域の総督を務めていたアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)のワリード1世に対する影響力を快く思わず、ハッジャージュの反対派との関係を深めた。708年か709年にはハッジャージュによってホラーサーン総督を解任され、投獄されたものの脱走してパレスチナへ向かっていたムハッラブ家(英語版)のヤズィード・ブン・アル=ムハッラブ(英語版)とその家族を匿った。ヤズィードはスライマーンの庇護を得るためにパレスチナに多数居住するヤマン系のアズド族(英語版)の人々との部族的な人脈を利用した。ワリード1世はヤズィードがハッジャージュに反抗したことに怒りを見せ、これに対してスライマーンはハッジャージュがヤズィードに課していた罰金を支払うと申し出た。さらにムハッラブ家の赦免を願い出る手紙を添えて手枷をつけたヤズィードと自分の息子のアイユーブをカリフの下へ送り、最終的にカリフは赦免を認めた。歴史家のヒシャーム・ブン・アル=カルビー(英語版)(819年没)の記録によれば、ヤズィードはスライマーンの側近となり、スライマーンはヤズィードに「極めて高い尊敬の念」を抱いていた。さらにヒシャームは、「ヤズィードは… 彼(スライマーン)の家に滞在し、身なりの整え方を教え、素晴らしい料理を作り、数多くの贈り物をした」と記している。ヤズィードはハッジャージュが714年に死去するまでの9か月間スライマーンとともに過ごし、ハッジャージュに関する強い影響力と偏見をスライマーンに植え付けた。
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