岩のドームの建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 02:08 UTC 版)
「アブドゥルマリク」の記事における「岩のドームの建設」の解説
アブドゥルマリクはヒジュラ暦66年(685/6年)もしくは688年にエルサレムの岩のドームの建設計画を立て始めた。碑文の献辞にはヒジュラ暦72年(691/2年)と記されており、多くの学者はこの年が完成した日付であると認めている。岩のドームはイスラーム教徒の支配者によって建設されたことが考古学的に証明されている最古の宗教的建築物であり、建物にはイスラームと預言者ムハンマドに関する最古の碑文による言及が含まれている。このような碑文が作られたことは画期的な出来事であり、その後のイスラームの建築物には必ずと言ってよいほどムハンマドについて言及されるようになった。イスラーム美術の研究家であるオレグ・グラバールによれば、岩のドームは「芸術作品として、また文化と信仰心を表す記録として」ほとんどすべての点において「イスラーム文化の比類のない記念碑」であり続けている。 アブドゥルマリクが岩のドームを建設した動機については中世の史料においてさまざまに説明されている。岩のドームの建設当時、カリフはキリスト教国のビザンツ帝国とそのシリアのキリスト教徒の同盟者に対する戦争に加え、イスラーム教徒の例年の巡礼地であるメッカを支配していた対抗のカリフのイブン・アッ=ズバイルに対する戦争にも従事していた。各種の説明の内の一つによれば、ユダヤ教とキリスト教という二つのより古いアブラハムの信仰の本拠地であるエルサレムにおいてアブラハムの宗教を共有する状況の中、アブドゥルマリクは岩のドームをキリスト教徒に対する勝利を示し、イスラームの独自性を際立たせる宗教的記念碑とすることを意図していた。もう一つの主要な説明は、イブン・アッ=ズバイルとの戦争の最中に自身の支配地におけるイスラーム教徒の中心地をメッカのカアバから移すために岩のドームを建設したというものである。メッカではイブン・アッ=ズバイルが例年のカアバへの巡礼期間中にウマイヤ家を公然と非難していた。現代の歴史家の多くは後者の説明を伝統的なイスラーム教徒の史料における反ウマイヤ朝のプロパガンダの産物であるとして却下し、カアバへの巡礼を果たすというイスラーム教徒の宗教上の前提をアブドゥルマリクが変えようとしたとする説明に疑念を呈しているが、一部の歴史家はこれを疑いの余地なく否定することはできないと主張している。また、アル=アンダルス(イスラーム勢力下のイベリア半島)出身のアラブ人学者であるイブン・ハビーブ(英語版)(853年没)によれば、アブドゥルマリクはヒジュラ暦72年(691/2年)に岩のドームに隣接する鎖のドーム(英語版)を建設した。 アブドゥルマリクの息子たちが数多くの建築物を建てさせたのとは対照的に、アブドゥルマリクによる既知の建築活動はエルサレムに限定されている。アブドゥルマリクは岩のドームだけではなく隣接する鎖のドームの建築にも携わり、岩のドームが建てられた聖なる岩(英語版)を含むように神殿の丘(アル=ハラム・アッ=シャリーフ)の規模を拡張させ、さらに神殿の丘に二つの門(恐らく慈悲の門と預言者の門)を建設したと考えられている。恐らくシリアとパレスチナのメルキト派(英語版)による一次史料に基づくと考えられるテオファネスの記録によれば、カアバを再建するためにゲッセマネにあるキリスト教の聖堂からアブドゥルマリクがいくつかの柱を取り除こうとした。しかし、キリスト教徒の財務長官のサルジューン・ブン・マンスール(英語版)(ダマスコのイオアンの父)とパレスチナ出身のパトリキオスという名のキリスト教徒の指導者が撤去を取りやめるようにアブドゥルマリクを説得した。そして両者は代わりとなる柱の提供をビザンツ皇帝ユスティニアノス2世に嘆願し、柱を提供させることに成功した。
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