アルジェ総督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 15:50 UTC 版)
1568年3月、アルジェ副王が空位となった。ピヤル・パシャ(英語版)の推薦を承けて、時のスルタン・セリム2世はクルチ・アリ・パシャをアルジェのパシャ兼ベイレルベイとして指名した。アルジェのベイレルベイは当時徐々に自主性を強めつつあった北アフリカのオスマン領主(イヤーレット(英語版)) の中でもとりわけ強大な力があり、スルタンによって指名された私掠船提督がその地位を占めていた。1569年8月、彼はスペインにより復位されていたハフス朝チュニスのスルタン・アフマド3世を襲撃した。約5000の兵を率いて陸路を進軍し、スルタンとその軍を即時に逃走させたのち、彼は自らチュニスの支配者の地位に就いた。アフマド3世はチュニス領の外、ラ・グレットのスペイン軍城砦に逃げ込んだ。 1570年7月、クルチ・アリ・パシャは「北アフリカのスペイン勢力を駆逐するため更なる人員と船が必要である」というスルタンの意向を承けてイスタンブールへ向かう途上、騎士団ガレー船船長Francisco de Sant Clement率いるマルタ騎士団のガレー船5隻と遭遇し、シチリアのパッセロ岬(英語版)付近でこのうちの4隻を拿捕した。 (Sant Clementは逃走したが、マルタ島へ戻った事を非難され、絞殺されたのち遺骸は袋詰めにされて港から投棄された。)この勝利によってクルチ・アリ・パシャは心変わりを起こし、祝勝のためとしてアルジェに戻った。そして1571年初め、彼は給金遅滞を不満として発生したイェニチェリの叛乱に直面する。彼は手当たり次第に人を襲い金を奪っている叛乱兵達を打ち棄てて、海上へ出る事を決意した。以前よりペロポネソス半島・ コロニ(英語版)にオスマンの大艦隊が存在することを知っていた彼は、その戦列に加わった。 これはメジンザード・アリ・パシャ(英語版)率いる艦隊で、数ヶ月後にはレパントで壊滅的被害を受けることとなる。
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