アルジェ時代
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「バルバロス・ハイレッディン」の記事における「アルジェ時代」の解説
1516年、兄弟は、当時アルジェを支配していたスペイン人からアルジェを奪ったものの(アルジェ占領 (1516年)(英語版))、避難したスペイン人達はペニョンに篭り、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の支援を求めた。しかしアルジェを取り戻すことは出来なかった。アルジェの支配者としての支配を固めたウルージは、Miliana, Medea、ティンニス(英語版)など内陸部へと勢力を拡大した。1517年に兄弟は南イタリアのイーゾラ・ディ・カーポ・リッツート島やLimiti岬を襲撃した。ウルージは、スペインと対決するには、彼自身の故郷であり、スペインのライバルでもあるオスマン帝国と同盟することが最上策だと考え、アルジェの君主の立場を捨て、オスマン帝国にアルジェをサンジャク(県)として献上した。オスマン帝国のスルタン、セリム1世はウルージをアルジェの知事、西地中海の海上州知事に任命し、イェニチェリ、ガレー船、大砲の支給を約束した。 1517年スペイン人はAbu Zayanをオラン、トレムセンの新しい支配者に任命し、ウルージに攻撃を仕掛けてきたが、逆にトレムセンは陥落し(トレムセン陥落 (1517年)(英語版))、Abu Zayanは処刑された。Abu Zayan王朝の生き残りSheikh Buhammudはオランに逃亡し、スペイン人の支援で現地を統治した。1518年皇帝カール5世はオランに到着し、Sheikh Buhammudとスペイン人市長Diego de Córdoba(マラガ近郊Comaresの伯爵)に出迎えられた。ディエゴは1万人のスペイン兵士を指揮し、地元の数千のベドウィンにも支援されていた。スペイン人達はトレムセンに向けて進軍しウルージとイスハークは1500のトルコ人と5千のムーア兵で迎撃した。戦いは20日に及んだが、Garcia de Tineo軍により殺された。 フズール(ハイレッディン)は、今やオスマン皇帝セリム1世からベイレルベイの称号を与えられ、イェニチェリ、ガレー船、大砲を持っていた。彼は兄の地位、渾名(バルバロッサ)、任務を継承した。1518年12月、オスマン帝国から援軍を得たハイレッディンはトレムセンを奪還した。引き続きイベリア半島のムスリムを北アフリカに運ぶ事業を続け、アンナバを占領した。1519年、アルジェ奪回に来たスペインとイタリアの連合軍を破った。1519年までに南仏のトゥーロン、プロヴァンス、en:Îles d'Hyèresを略奪した。1521年にはバレアレス諸島や、新大陸から帰国してきた船団を襲撃し、1522年には配下のクルトゥオウル・レイースを指揮官とした船団をロドス島攻略へ派遣した。1525年6月サルディーニャ島を略奪。1526年5月南イタリアのクロトーネに上陸し船を沈め、アドリア海沿岸のマルシェ地方のカスティニャーノを略奪し、6月にはメッシーナに上陸し港を破壊し、遂にトスカーナ地方、カンパーニャ地方にまで姿を見せるようになった。1527年にもイタリアとスペイン沿岸の港と城を襲撃した。 1529年5月スペイン人の砦アルジェ要塞(スペイン語版、英語版)を陥落させ(アルジェ占領 (1529年))、8月にはスペインの地中海沿岸を攻め、7万人のムスリムが北アフリカへ脱出するのを支援した。10月、フォルメンテーラ島を攻め(フォルメンテーラ島の戦い (1529年)(英語版))、スペイン船を駆逐。1530年1月にシチリアの海岸を攻め、3月と6月にはバレアレス諸島とマルセイユを略奪した。7月にはプロヴァンスとリグリア(コルシカ島北の海域)の海岸に現れてジェノヴァ船を拿捕した。10月にはピオンビーノ(トスカーナ地方の港湾都市)に現れ、ヴィアレッジ(トスカーナ地方の港湾都市)の帆船を拿捕し、3隻のフランスガレー船を拿捕、カラブリアの二隻以上の船を拿捕した。1530年12月にバレアレス諸島のカブレラの城を占領した。彼はこの島をこの地域の補給基地として使い始めた。
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