アルジェリア西部での蜂起
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「アブド・アルカーディル」の記事における「アルジェリア西部での蜂起」の解説
1831年5月、アルジェ東方のメゾンカレーの戦い以降その名を知られるようになった。この戦いにおいて、偵察行動中の外人部隊兵27名全員を戦死させる戦果を収めている。アルカーディルはアルジェからオランにかけて縦横無尽に行動し、その年の末ごろにはオラン近郊に侵入、フランス軍を数度にわたり打ち破りその実力は確かなものになりつつあった。1832年の秋にはシャリーフの血を引くアルカーディルは西側部族に認められ、高齢の父が辞退したこともあってアミールの地位に就く。わずか24才でのアミール就任だが、これによりアルジェリア東部のアフマド・ベイとともに反植民地闘争を指導する地位を獲得した。一方、当時のフランス外人部隊の装備編成はヨーロッパにおいての活動に向いたものであって、アルカーディルに指揮された軽快機敏なスパッヒ(北アフリカ民騎兵)に打ち負かされることしばしばであった。外人部隊司令官ストッフェル大佐は直ちに装備の更新と部隊改編に着手、1833年にはイベリア半島においてゲリラ戦を経験してきたスペイン人部隊を投入し、次第に同じゲリラ戦を行うアルカーディルの軍隊に優位に立ちつつあった。 しかし、翌1834年に東部のアフマド・ベイへの攻撃を重視するためにフランスの政治方針が変わると、一転してアルカーディルの懐柔に向かった。またアルカーディルもオラン攻略を兵力不足により断念して以来、立て直しのための時間を必要とし、デミッシェル(英語版)将軍との間に一時的な和平が成立する。その条約の内容はフランスの主権が承認されるものの、アルカーディルを地方長官(ベグ)に任命し、火薬、武器、硫黄を購入する権利とアルズー港の商業利用を認めるというアルカーディルの要求が大幅に受け入れられたものであった。これによりマスカラの族長に認められて西部アルジェリアの全部族の指揮権を得たアルカーディルは、武器弾薬を独自に生産する計画を立てる。直ちにヨーロッパ人技術者が招かれ、本格的な武器製造を始めた。またこの状態を放置しているフランスを弱気になっている証拠と考え、1835年にはアルジェリア全土からフランス勢力を一掃すべく8,000の騎兵と4,000の近代的な歩兵をもって蜂起し、ラ・マクラ峡谷でフランス軍を攻撃して死傷者500名の損害を与えた。しかしフランスもまたこの条約を一時的なものと考えており、増援部隊を派遣するとともに総督を好戦的なクローゼル将軍に替え、アルカーディルの本拠地マスカラへの攻撃を開始させた。たちまち周辺の部族とともにマスカラは制圧されたが、その軍事行動はむしろ諸部族の強い反発と抵抗を招いた。これにより、フランス植民地軍の情勢は1836年のゲリラに対するアルランジュ将軍の大敗、1837年の1,000名の死者をもたらした東部におけるコンスタンティーヌへの遠征失敗によって急速に悪化した。
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