反植民地闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 15:53 UTC 版)
1960年南ローデシアに帰国したムガベは、マルクス主義に傾倒するようになった。ムガベはジョシュア・ンコモ(英語版)率いる国民民主党(NDP)に参加する。同党は、ローデシアを支配していたイアン・スミス白人政権によって禁止され、後にジンバブエ・アフリカ人民同盟(英語版)(ZAPU)となる。1963年ジンバブエ・アフリカ人民同盟を離党し、同党と対立関係にあってタンザニアで結成されたジンバブエ・アフリカ民族同盟(英語版)(ZANU)にンダバニンギ・シトレ(英語版)師と法律家のハーバート・チテポとともに参加する。ZANU党首となったチテポは、ムガベを党書記長に任命した。 1964年、ムガベは、ンコモ、エドソン・ズヴォブゴらとともに逮捕、拘留された。10年間を獄中で過ごす中、法律を学ぶ。1974年、釈放されたムガベはモザンビークに出国し、そこでムガベは中華人民共和国の軍事支援や毛沢東思想の影響を受けるようになり、ジンバブエ・アフリカ民族解放軍(ZANLA)を結成してイアン・スミス率いるローデシア政府軍と武装闘争に突入した。この関係により、後の1980年代もジンバブエ最大の武器供給国は中国だった。一方、ンコモは中ソ対立で中国と対立するソビエト連邦の支援を受けてジンバブエ人民革命軍(ZIPRA)を結成して対抗した。南アフリカでは、ZAPUがアフリカ民族会議の同盟者であった際にはこれと対立して中国の支援を受けた汎アフリカ主義者会議(英語版)を支持していた。 1975年3月18日、チテポはザンビア滞在中に乗っていた車に仕掛けられた爆弾によって暗殺された。事件をめぐり、ZANLA司令官のジョサイア・トンゴガラ(英語版)は、ザンビアのケネス・カウンダ政権によって非難された。ムガベは、モザンビークによってZANUがコントロールを受けていると一方的に仮定した。ンダバニンギ・シトレとの論争後、ムガベは、ZANU内でシトレら穏健派と袂を分かち、武闘派の分派「愛国戦線」を組織した。1977年、イギリスとアメリカはローデシア制憲会議の開催を試みたが、ムガベはアメリカの直接的関与を拒否した。
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