党の非合法化
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1926年5月28日に発生したクーデター以後、党が非合法化され地下活動を余儀なくされたほか、翌年には党本部も閉鎖。1929年、ベント・ゴンサルヴェスの下で細胞のネットワークとして党が再建される。一方1938年には、「クーデター以後における党活動の停滞及び金銭トラブル」を理由にコミンテルンから追放される(コミンテルンは5年後に解散)。 サラザール独裁政権(エスタド・ノヴォ)時代には、多くの党員が逮捕され拷問を受けるなど、党に対する弾圧が強まった。また、中にはカーボベルデの強制収容所に送られた者もおり、ゴンサルヴェスは同地で死亡した。このような徹底した弾圧にも屈せず、1940年から翌年にかけて党再建と相成った(「1940年の再建」)。再建されて初めて開かれた1943年の党大会では、独裁政権の終結を求める者と団結すべきとの声明を発表したほか、国軍内部にシンパを増やす方針を打ち出した。 第二次世界大戦で枢軸国側の敗北が決定的となった1945年、サラザールは西欧諸国に良いイメージを抱いてもらうためにも、幾ばくかの民主的変革を実行に移さねばならなくなった。こうした中、同年10月には民主化を求めるレジスタンス勢力による綱領作成が認可された。「民主同盟運動」と命名されたこの綱領は本来、穏健派が中心となって作成したものだが、瞬く間に共産党の強い影響下に置かれることとなる。 1946年7月に開催された第4回党大会では、政権を転覆させる唯一の方法として大規模な大衆運動を主導する必要性を指摘。本大会の決議はソビエト連邦共産党中央委員会により出版された。党幹部のアルヴァロ・クニャルはその際、ユーゴスラビアに赴き東側陣営との関係改善の支援を求めた。その後、1948年にはソ連へも足を運び、ミハイル・スースロフと会談を行った結果関係が修復。しかしクニャルはソ連からの帰国直後、秘密警察により逮捕された。 1957年9月の第5回党大会(キエフにて開催)では、初めて綱領と党則を採択。また、植民地主義に対する公的な立場を初めて示したのもこの党大会である。民族自決の権利は何人も有するものとして、アンゴラのアンゴラ民族解放戦線 (MPLA) やモザンビークのモザンビーク解放戦線 (FRELIMO) 、そしてギニアビサウのギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 (PAIGC) に対する支援を打ち出した。 1960年1月、10名の党員がペニシェの厳重警備刑務所から脱獄。このうちクニャルは翌年書記長に選出され、ハイメ・セラは武装勢力 を組織することになる。 1961年にアンゴラで、次いで翌年にはギニアビサウ、1964年にはモザンビークにて独立戦争が勃発(ポルトガル植民地戦争)。17年間続いたこの戦争で、数千名の国民が徴兵忌避策としてフランスやドイツ、ルクセンブルク、そしてスイスへ逃亡する中、共産党は反戦を唱え反植民地闘争を展開する。国内の政情不安は日増しに高まり、サラザール政権も衰微の一歩を辿る。 また、1962年には学園紛争も発生し、学生の民主化要求の高まりに危機感を覚えたサラザール政権は、国内の主要学生組織を非合法化した。学生組織のメンバーのほとんどは共産党員で、停学処分を余儀なくされた。学生は共産党の支援を受け、同年3月24日にはリスボンの街頭で大規模なデモ活動を実施。デモは警官により激しい弾圧を受けた上、参加者のうち数百名が負傷したものの、その直後には政権に対するストライキを敢行した。 1965年の第6回党大会では、クニャル書記長が「勝利への道- 民族主義及び民主主義革命における党の役割-」と題する報告書を公表。地下活動を行う党員に広く出回ったこの報告書は、「経済における独占の終結」や「文化や教育へのアクセスの民主化」など8項目の政治的目標を掲げたもので、以後、民主化運動に大きな影響を与える文書となる。
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