リセ教師から研究者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 08:36 UTC 版)
「フェルナン・ブローデル」の記事における「リセ教師から研究者へ」の解説
卒業後は、1923年から1926年まではアルジェリアのコンスタンティーヌ、1926年から1932年まではアルジェでリセの教壇に立ち、地中海世界に強い関心を抱く契機となった。この間、1925年と1926年には兵役によりラインラントを広く旅し、ドイツについて見聞を深める機会を得た。その後、1932年から1935年にはパリのリセの教師を務めた。この間、1927年にはリセの学監の娘であったポーレット・ヴァリエと結婚したが離婚、そののち、1933年にはアルジェ時代の教え子であったポール・ブラデル(当時18歳)と再婚した。 1935年から1937年にかけて、フランス政府の命令でブラジルのサンパウロ大学で教壇に立ち、1937年からはパリ高等研究実習院 (EPHE)の第4部門に勤務することとなり、歴史哲学の研究にたずさわることとなった。 1929年に歴史学誌『社会経済史年報(Annales d'histoire economique et sociale)』を創刊した歴史学者で、終生、ブローデルの「精神的な父」であったリュシアン・フェーヴルとは1937年に出会った。フェーヴルの同僚で『年報』創刊に携わり、ユダヤ人であったため1944年にナチスによって銃殺されたマルク・ブロックとの親交が始まったのもこの頃であった。
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