帝政ロシアとの闘争とバクー油田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 19:50 UTC 版)
「ロスチャイルド家」の記事における「帝政ロシアとの闘争とバクー油田」の解説
ロスチャイルド家はユダヤ人迫害を推進するロシア帝国とは敵対的立場を取った。1854年のクリミア戦争ではロシアと敵対するイギリス・フランス・トルコ陣営を金銭面から支援した。英仏軍の軍事費を調達し、トルコにも巨額の借款を与えた。こうしてオスマン債務管理局の債権者たる英仏と債務者トルコ双方が、ロスチャイルド家に財政の詳細を掌握された。 ロシアはクリミア戦争に敗れて、1867年にロシア領アメリカを米国に売却した。しかしオスマン債務管理局が設立された1881年の翌々年に再び財政困窮に陥った。このときパリ家当主アルフォンスはロシア政府の公債発行に協力しており、その見返りとしてバクー油田の中でも最大級のバニト油田をロシア政府より与えられた。すでにアルフレッド・ノーベルがバクーを開発していたので、アルフォンスは彼と協力することにした。ノーベル系企業はドイツ銀行から監査役を受け入れながらドイツにも進出していた。1897年サンクトペテルブルクのロシア国立銀行が中央銀行となるとき、ロスチャイルド家は代理人のアレクサンドル・スティグリッツを初代総裁にした。1901年にフランクフルト家が閉鎖した。そこで膠州湾租借地をあえて孤立させ、南下政策を阻止するとともに露清銀行におけるパリバの主導権奪還を支援した。1904年の日露戦争でもロスチャイルド家は軍事費を提供したのである。初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドが、ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフから「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる」との誘いを受けた。そこで日本政府が戦時国債を発行する便宜を図り、3回目と4回目の起債はロンドンとパリの両家がそろって引き受けに参加した。 南アフリカや北米西岸でもロスチャイルド家は鉱産資源を開発した。1880年にはセシル・ローズに融資、ダイヤモンド寡占企業のデビアスを設立させた。1924年にデビアスはノーベル資本を爆薬部門として吸収した。1895年10月にはロンドン・パリの両家がアナコンダ銅鉱山会社の株1/4を750万ドルで買収。このころ世界銅供給の4割以上を支配した。このアナコンダは1977年にARCO(現:BP)に吸収されて、ホームステッド法の延命に成功しアラスカのプルドーベイ油田を存分に開発した。油田は1968年に発見されたが、翌々年にラファージュがマックス・エイトケンのカナダセメントを吸収し、パイプラインの建材を提供した。 1914年にはロイヤル・ダッチ・シェル石油に油田を売却し、同社の大株主に転じた。自らの油田を売ってでもヨーロッパ石油産業の再編を進めることで、ロックフェラーのスタンダード石油がヨーロッパ進出を阻止する狙いがあった。英仏露土4か国の資本が融けあうようにしてコーカサスの利権を得た。グルベンキアンはバルカン半島の出身らしく、列強資本の溶剤として活躍した。この由緒ある欧州経済において、ロックフェラーは下積みを欠いていたが、ロスチャイルド家は英仏露土各国ばかりか、ロックフェラーが台頭した合衆国に対しても債権者であった。1917年にロシア革命が起こってツァーリ体制が崩壊し、ボルシェヴィキ政権が外国資産を全て接収したが、ロスチャイルド家はこの時に売却しておいたおかげでロシア革命による打撃を受けずにすんだ。
※この「帝政ロシアとの闘争とバクー油田」の解説は、「ロスチャイルド家」の解説の一部です。
「帝政ロシアとの闘争とバクー油田」を含む「ロスチャイルド家」の記事については、「ロスチャイルド家」の概要を参照ください。
- 帝政ロシアとの闘争とバクー油田のページへのリンク