帝政ドイツ時代
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「国会議事堂 (ドイツ)」の記事における「帝政ドイツ時代」の解説
1871年に統一ドイツが誕生して以来、国会(ライヒスターク)は既存の建物を転々としながら開催されていた。新しい国会議事堂の必要性が叫ばれ、その場所としてベルリン市街地の西にある国王広場(ケーニヒスプラッツ、現在の共和国広場)の東側が選定された。建築設計競技が行われ、ルートヴィヒ・ボーンステット(Ludwig Bohnstedt)の案が優勝したが、予定地にあったポーランド出身のプロイセン外交官・ラチンスキ伯爵の邸宅の買収が進まないうえに、巨額の費用を要する建設には当時の皇帝ヴィルヘルム1世や首相オットー・フォン・ビスマルクらが賛成せず、建設計画は宙に浮いた。 1881年にようやく議会は予定地の買収を決めたが、10年前のボーンステット案に替えて新しい建築案を選定する機運が高まった。1882年、改めて建築設計競技が行われ、189件の応募案の中からパウル・ヴァロット(de:Paul Wallot)の案が選ばれた。1884年、最初の礎石を皇帝が置き建設が始まり、10年の歳月をかけて1894年に完成した。当時、建物頂上の鉄とガラスのドームは最先端技術の粋といわれた。
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帝政ドイツ時代
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「下士官 (ドイツ軍)」の記事における「帝政ドイツ時代」の解説
Feldwebelは、19世紀初頭にはドイツ陸軍内で広く階級として定着していた。1918年までは、下士官グループの最上位に位置し、中隊付上級曹長 (CSM:米国のCompany Sergeant Major) に該当する職務を担当した。 階級名(訳)役割、内容他国の該当階級Feldwebel(曹長) 小隊長代理となる資格を有する。平時は中隊付上級下士官 Unteroffiziere mit Portepee Sergeant Major(上級曹長) Vizefeldwebel(准曹長) 上級下士官Unteroffiziere mit Portepee Master Sergeant(曹長) Sergeant(上級軍曹) 小隊下士官 Platoon Sergeant(上級軍曹) Unteroffizier(軍曹/伍長) 分隊長 Sergeant/Corporal(軍曹/伍長) 1877年よりFeldwebel-Leutnantが設けられ、年功ある下士官からの昇任が可能となった。予備役少尉相当の階級で、将校 (Commissioned Officer)であったが、正規少尉の下位と位置付けられていた。 1887年より新たに准士官としてOffiziersstellvertreter (Deputy Officer) が設けられた。
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帝政ドイツ時代
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1871年のドイツ統一により、プロイセン王国を中心とする連邦国家ドイツ帝国が成立した。ただし、軍隊は領主の所有物であるという観念から「ドイツ帝国陸軍」というものは1918年の帝国崩壊まで存在せず、服の系統こそある程度統一が図られど、将官襟章やコカルデ、ボタンの紋章、肩章、サッシュ、刀緒等構成国ごとで仕様が異なった。とりわけ、バイエルン王国は普墺戦争敗北の借金によって併合されたという背景から独立意識が強く、徽章やパイピング、ボタンの色に至るまで差異が目立った。 ユーバーロックの襟には連隊色ないし軍団色が入る。将官でも名誉連隊長として各連隊色を入れていた。例えば、ヴィルヘルム1世は近衛歩兵第1連隊名誉連隊長のため赤、オットー・フォン・ビスマルクは重騎兵第7連隊名誉連隊長のため黄色であった。 1893年に前合わせがフライフロントの野戦服が導入される。基本的にポケットはないが、上級下士官や将校では個人の裁量で付けているものもある。色はプルシアンブルーだが、騎兵は灰色となり、バイエルン王国軍では水色となる。1907年4月19日、植民地で使用されていた「野戦灰色」(フェルトグラウ)の生地を本国でも歩兵および砲兵の野戦服に採用。1908年3月5日にウーラン、竜騎兵、胸甲騎兵、1910年2月23日には将校にもフェルトグラウが導入された。軽騎兵はウーランカ、徒歩砲兵はブランデンブルク型袖で前合わせのパイピングが赤、袖が黒。工兵はスウェーデン型袖で胸、襟ともに黒。航空部隊は袖章を除き砲兵と同様で、肩章はグレーの台にプロペラが付く。略衣の襟章は黒に赤淵。制帽は砲、工、通信、鉄道兵は赤パイピングに黒い鉢巻。 コカルデは統一ドイツ帝国のものと諸邦のものが併用された。ピッケルハウベ・シャコー帽・毛皮帽では、正面に諸邦を示すコカルデ、着用者の右側面にドイツ帝国のコカルデが付けられた。制帽では上のクラウン部正面にドイツ帝国のコカルデ、下の鉢巻き部正面に諸邦のコカルデが付けられた。 第1次世界大戦勃発後の1915年3月3日には、M1907/10の袖口ボタンなどを廃した略式野戦服(Vereinfachte Feldrock)が制定される。同年9月21日の勅令にて、全兵科共通野戦服が制定され、同時に兵科色が制定される。前合わせはフライフロントとなった。ヴュルテンベルク王国は10月、ザクセン王国は11月、バイエルン王国は翌年3月31日通達。なお、特技兵たる猟兵、狙撃兵、騎猟兵、乗馬猟兵はグレーグリーンであった。また、以前までは国家毎に違った将官襟章も改定でプロイセン王国軍の柏葉に統一された。ただしバイエルンのみ銀刺繍、台がグレーと他の軍と違い襟元にバイエルンを示す水色と白のトレッセがあしらわれた。この他、同1915年に平時礼装が制定された。 第一次世界大戦中の1916年からピッケルハウベはシュタールヘルム(鉄兜)に変えられていった。
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