帝政の成立(第二次対仏大同盟)
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「ナポレオン戦争」の記事における「帝政の成立(第二次対仏大同盟)」の解説
外交関係は第二次対仏大同盟、戦役はイタリア戦役 (1799-1800年) を参照 1798年1月より、スウェーデンの調停のもと、フランス革命戦争の終結を目指したラシュタット会議が開かれるも、オーストリアは会議を引き延ばし、対仏大同盟の再建という時間稼ぎに成功する。1798年12月、イギリス、オーストリア、ロシアなどによって第二次対仏大同盟が結成され、1799年にはオーストリアが北イタリアを奪回する。再びフランスは危機に陥り、国民の間では総裁政府を糾弾する声が高くなっていった。 この状況の中、ナポレオンは少数の部下と共にエジプトを脱出してフランスに戻り、11月9日、ブリュメール18日のクーデターを起こして独裁権を握った。1800年、ナポレオンは反撃のためアルプス山脈を越えて北イタリアに進出。6月14日のマレンゴの戦いでは、フランス軍はオーストリア軍の急襲を受け窮地に追い込まれるが逆襲に成功する。モローが率いるライン方面軍も、ホーエンリンデンの戦い(12月3日)でオーストリア軍を撃破した。 1801年2月9日、オーストリアはリュネヴィルの和約に応じ、カンポ・フォルミオの和約の内容を再確認した。オーストリアは1798年に第二次対仏大同盟を結成し、北イタリアやライン方面に侵攻していたが、その講和によって第二次対仏大同盟は崩壊し、イギリスのみがフランスとの戦争を続けた。7月にフランスはローマ教皇ピウス7世との間にコンコルダートを結び、フランス革命以来の対立関係を解消した。イギリスのみは戦争を続けていたが、1802年3月25日にはフランスとアミアンの和約を結び講和した。 この後国際平和が1年余り続いた。しかし、フランスによるヨーロッパ市場からのイギリス製品の駆逐や和約違反行為などにより、再び英仏間の対立が強まり、1803年5月16日、イギリスはアミアンの和約を破棄し宣戦布告した。戦争の目的は、フランスの旧状回復から、ナポレオンの打倒へと変わっていく。また3月21日にナポレオンに対するクーデター計画に参画したとして、フランス王族のアンギャン公が処刑された事も欧州諸国の非難を浴び、再戦に拍車をかけた。1804年5月28日、ナポレオンは帝政の開始を宣言。12月2日に戴冠式を行い、フランス皇帝ナポレオン1世となった。
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