帝擁立を目指す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 22:36 UTC 版)
袁紹と共に、皇族で幽州牧の劉虞を擁立しようと計画したが、袁術や曹操らがこれに反対した(魏志「袁術伝」・魏志「武帝紀」)。翌2年(191年)春には劉虞本人に擁立を持ちかけたが、劉虞に固辞されたため失敗した(魏志「武帝紀」・「公孫瓚伝」)。また官爵を発行させるため、劉虞に尚書の事務を執り行なわせようとしたが、これも拒絶された(魏志「公孫瓚伝」)。 韓馥は安平に駐屯していたが、公孫瓚の攻撃を受け撃破された。公孫瓚は表向きは董卓征伐に協力すると言いつつも、内心は冀州に攻め寄せる意思を持っていた。また諸郡がこれに呼応する動きを見せたため、韓馥は恐怖心を抱いたという。董卓が長安遷都後も、しばらく洛陽に留まって関東諸侯の侵攻に備えていたが、同年夏4月に長安へ退いたため(魏志「武帝紀」)、袁紹は延津に引き返した(魏志「袁紹伝」)。
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