バクー油田
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バクー油田(バクーゆでん)は、アゼルバイジャン共和国首都のバクーにある油田である。
歴史
その歴史は古く、1830年代から始まった。1878年秋、ロシア初の石油パイプラインНефтепровод Балаханы — Чёрный городがen:Branobelによって作られた。
- en:Branobel
- en:De Rothschild Frères
- ロイヤル・ダッチ・シェル
- en:Zeynalabdin Taghiyev
- en:Musa Naghiyev
- en:Murtuza Mukhtarov
- en:Shamsi Asadullayev
- James Vishau and Anglo-Russian Oil Company
- Trade House Benkendorf and Co
- The Russian Oil General Corporation(en:A.I. Mantashev & Co.、en:G.M. Lianozov Sons等)
ペルシャ湾の油田が見つかるまでは世界の石油生産の過半数を占める世界一の油田だったが、ソ連によって国有化され、1930年代にかけては同国の石油産出量の大半を占めていた。バクー油田を管理したアレクサンドル・セレブロフスキーは「ソ連のロックフェラー」と呼ばれた[1]。
第二次世界大戦初期の独ソ関係良好期には、パイク作戦として、ドイツに石油を供給するソ連領のバクー油田を英仏連合軍が爆撃する提案がされた[2]。独ソ戦中、アドルフ・ヒトラーのドイツ軍は、ソ連の戦争継続能力を奪い、不足する自国の石油も確保するためにバクー油田占領を目的として、ソ連南部、カフカス地方へ侵攻した(ブラウ作戦)。ドイツ軍が占領した際は連合軍の爆撃計画が再開されることになっていた。ドイツ軍は1942年夏にはカフカス山脈の中央部まで進出したが、補給難から撤退し、ブラウ作戦自体もスターリングラード攻防戦の敗北によって失敗した。戦争中、バクー油田は一貫してソ連の石油供給の中心を担い、勝利への大きな貢献を果たした。
ソ連時代にはNeftciler(アゼルバイジャン語で油田労働者を意味する)による開発が行われていたが、ソ連崩壊後は外国資本による開発も行われている。その後はヴォルガ・ウラルや西シベリアの油田地帯が開発されるに従ってその割合は次第に低下していった。
今日ではアゼルバイジャン政府はよりクリーンで効率的な石油採掘を目指している。その一環となるのがバクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(BTCパイプライン)である。
21世紀に入ると、初期の頃から開発が進んだ領域(例:ビビ・ヘイバト油田)では、くみ上げ量の9割が水になるなど資源の枯渇が始まった[3]。油田の領域は、カスピ海沖合(例:カスピ海油田)へと拡大している[4]。
脚注
- ^ http://www.mining-enc.ru/s/serebrovskij/
- ^ Osborn, Patrick (2000). Operation Pike: Britain versus the Soviet Union, 1939–1941. Santa Barbara, CA: Greenwood Publishing Group. ISBN 978-0-313-31368-4.
- ^ 死にゆく油田時事通信社(2016年12月25日閲覧)
- ^ 「80年まで石油生産」時事通信社(2016年12月25日閲覧)
外部リンク
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バクー油田
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バクーでの石油の採取は紀元前より行われ、皮袋に詰められラクダでイランやイラクに運ばれたという。その石油は灯火用あるいは建物や船のモルタルに、あるいはミイラの防腐剤として使われた。初めは地表への湧出油を採取していたが9世紀には手掘りの井戸が掘られ、16世紀には石油産業の様相を呈した。1683年にスウェーデン国王の命を受けたドイツ人医師ケンペルが訪れ、欧州人として初めてバクー油田を調査した。1798年にBibi-Heybat湾で世界初の海上生産が試みられたという。19世紀半ばに米国で近代化された石油産業はバクーにも製油技術をもたらし、この地を訪れたロベルト・ノーベル(英語版)が着目。リュドビック(英語版)、アルフレッドと共にノーベル兄弟石油会社(英語版)を設立。これより遅れてロスチャイルドもバクーに参入した。1888年にはバクー原油がスエズ運河を経由して日本に輸入された。1898年にはバクーに230kmのパイプラインが敷かれていた。1901年の時点では3000本以上の石油井戸があり、年間1100万トンが生産され、米国を抜いて世界の石油産出量の半分をバクーが占め、Black Gold Capitalとして世界に知られていた。1920年にボルシェビキがすべての石油資産を接収し、1941年にはソ連の全石油生産の72%を占めていた。1925年にバクーからバツーミ(グルジア)までのパイプラインが完成。1911年から使用開始したロータリー式掘削がこの頃には主流となった。1941年にソ連で最深の井戸が掘られ、3200mに達した。20世紀末になると陸上にある油田のほとんどが枯渇し、アプシェロン半島の先にあるカスピ海海底の3油田(ACG油田)から生産されている。現在でも世界有数の石油産出地であり、バクーの経済も石油を中心として成り立っている。
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