BPとは?

ベーシスポイント

別名:bp
英語:basis point

金利債券利回りなどの変動幅を表す単位のこと。

1ベーシスポイントは0.01%に相当する。10ベーシスポイントならば0.1%ということになる。例えば、金利3.0%から2.5%へ引き下げられた場合0.5%の引き下げになるので、50ベーシスポイント引き下げたことになる。

債券利回りでは、ベーシスポイントの他に、ベーシスポイントの半分であるハーフ・ア・ベーシスポイントを用いることもある。

ちなみに金利が1ベーシスポイント変化した時の金融商品変動額をベーシスポイントバリューという。


BOP(BP)

読み方ビー・オー・ピービー・ピー
英文正式名Balance of Payments (Statistics)
日本名(略称):国際収支(統計)

一定期間における一国(一経済圏)のあらゆる対外経済取引体系的記録した統計対外経済取引は、居住者非居住者間の①財貨サービス所得に関する取引、②対外資産負債増減に関する取引、③移転に関する取引分類されている。

※この記事は「財務省」ホームページ内の「国際関係略語集」の2008年10月現在の情報を転載しております。

ベンゾ[a]ピレン

分子式C20H12
その他の名称:3,4-ベンゾピレン、BP、3,4-Benzpyrene、Benzo[a]pyrene、1,2-Benzopyrene、1,2-ベンゾピレン、3,4-Benzopyrene、ベンゾピレンBenzopyreneベンツピレンBenzpyrene
体系名:ベンゾ[a]ピレン


ホスフィノほう素

分子式BP
その他の名称:Phosphinoboron
体系名:ホスフィノほう素


ホスフィノボラン

分子式BP
その他の名称:Phosphinoborane、Borylphosphine
体系名:ホスフィノボラン、ボリルホスフィン


ブロモプロピラート

分子式C17H16Br2O3
その他の名称:ネオロン、アカロール、ブロモプロピラート、ブロモプロピレート、フェニソブロモラート、フェニソブロモレート、Acarol、Neoron、GS-19851、Geigy-19851、BP【Pesticide】、Bromopropylate、Phenisobromolate、Bis(4-bromophenyl)glycolic acid isopropyl、4,4'-Dibromobenzilic acid isopropyl esterBis(4-bromophenyl)glycolic acid isopropyl ester、Folbex VA、ホルベックスVA、ジブロモベンジル酸イソプロピル、Isopropyl dibromobenzylate、エイカロール
体系名:ビス(4-ブロモフェニル)グリコール酸イソプロピル、4,4'-ジブロモベンジル酸イソプロピル


ほう化りん

分子式BP
その他の名称:りん化ほう素Boron phosphide、ほう化りん、Phosphinidyneboron
体系名:ホスフィニジンほう素


塩基対

英訳・(英)同義/類義語:bp, base pair

二本鎖DNA中の、A/T、G/C塩基組み合わせDNA長さを表す単位としても使われる。

沸点

英訳・(英)同義/類義語:boiling point, bp

液相蒸気圧外圧一致したときの温度
「生物学用語辞典」の他の用語
実験方法装置単位など:  発現ベクター  病態モデル動物  不透膜  沸点  沸点上昇  沸騰  分圧

塩基対

【英】: Base Pair, BP
DNA二本鎖の間は、塩基塩基が頭をつきあわせアデニン(A)とチミン(T)、グアニン(G)とシトシン(C)というように決まった組になって、水素結合により、対合している。この組を塩基対という。

RNAではアデニン(A)とウラシル(U)、グアニン(G)とシトシン(C)対合する。
DNA二本鎖の間は、塩基塩基が頭をつきあわせアデニン(A)とチミン(T)、グアニン(G)とシトシン(C)というように決まった組になって、水素結合により、対合している。この組を塩基対という。

RNAではアデニン(A)とウラシル(U)、グアニン(G)とシトシン(C)対合する。
塩基対
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デオキシリボ核酸

リボ核酸

アデニン

チミン

グアニン

シトシン

塩基

ウラシル


ビシュエシュワル・プラサード・コイララ

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ビシュエシュワル・プラサード・コイララ

ビシュエシュワル・プラサード・コイララネパール語: बिश्वेश्वर प्रसाद कोइराला: Bishweshwar Prasad Koirala1914年9月8日 - 1982年7月21日)は、ネパール王国政治家。第24代ネパール首相(在任:1959年5月27日 - 1960年12月15日)。B・P・コイララ、あるいは単にB・Pと呼ばれる。

ネパール会議派に所属。ネパール史上初めて国会から選ばれた首相。「B・P」の名で親しまれ、今も国民的な尊敬を集める政治家である。弟のギリジャー・プラサード・コイララは兄の名にちなんで「B.P.コイララ保健・科学大学」を設立している。

生涯

ビシュエシュワル・プラサード・コイララ

首相就任前はラナ家の独裁体制と戦い、会議派を率いてきた。ラナ家打倒後、国王との対立もあって首相には任命されなかった。

1959年、総選挙の結果、会議派が第一党となり、首相に選出された[1]。 首相就任に当たり、マヘンドラ国王は妨害するが、インド政府に使者を送って助けを求め、その圧力で無事首相に就任する。

就任すると封建的土地制度の改革に着手、シャハ家ラナ家への課税、西ネパールのラージャ(地方権力)への課税など、民主的な改革を次々と推し進めた結果、封建勢力の反発を買い、マヘンドラ国王と対立。

1960年12月15日、マヘンドラ国王はクーデターを決行、内閣を罷免、コイララは投獄される[2]

1968年、釈放されるがインドに亡命。1976年ネパールに帰国。後半生は健康が悪化し、大部分が獄中生活と亡命生活であった。晩年の医師団の一員に、のちの大統領ラーム・バラン・ヤーダブがいた。

1982年7月21日カトマンズで死亡した。

親族

兄のマートリカ・プラサード・コイララ、弟のギリジャー・プラサード・コイララもネパール首相を務めている。

脚注

  1. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.645
  2. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.648

参考文献

  • 佐伯和彦 『世界歴史叢書 ネパール全史』 明石書店、2003年 

関連項目



ロバート・ベーデン=パウエル

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/17 19:17 UTC 版)

ロバート・ベーデン=パウエル
Robert Baden-Powell
Baden-Powell USZ62-96893 (retouched and cropped).png
ベーデン=パウエル
渾名 ベーデン=パウエル卿
インペーサ(眠らない狼)
マフェキングの英雄
世界の総長
B-P
生誕 1857年2月22日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
ロンドンパディントン
死没 (1941-01-08) 1941年1月8日(満83歳没)
イギリス領ケニアの旗 ケニア植民地英語版 ニエリ
所属組織 Flag of the British Army.svg イギリス陸軍
軍歴 1876 - 1910
最終階級 陸軍少将
除隊後 英国ボーイスカウト連盟総長
テンプレートを表示

初代ギルウェルのベーデン=パウエル男爵ロバート・スティーヴンソン・スミス・ベーデン=パウエル(英語: Robert Stephenson Smyth Baden-Powell, 1st Baron Baden-Powel of Gilwell, OM, GCMG, GCVO, KCB, DL英語版1857年2月22日 - 1941年1月8日)は、イギリスの軍人、作家で、スカウト運動ボーイスカウト)の創立者。

人物

ベーデン=パウエル卿(Lord Baden-Powell)と呼ばれることも多く、またB-Pの愛称でも知られる。ロバートの名は蒸気機関車の発明者ジョージ・スチーブンソンの一人息子の鉄道技師ロバート・スチーブンソンが名付け親(了解を得て名付けられた)である。父ベーデン・パウエルはオックスフォード大学教授、牧師であった。リベラルな神学者でもあり、当時の保守的な英国国教会と戦っていた。彼の主張は、科学的進歩はキリスト教の教義に反するものではなく合致するものである、というもので、チャールズ・ダーウィンは自著『種の起源』第三版の序でパウエル師の学説を高く評価している。母はヘンリエッタ・グレイス・スミス。海軍の名家であるスミス家の出身であった。ロバートは10人兄弟の8番目だった(うち3人は夭折)。妹はアグネス・ベーデン=パウエル。妻はオレブ・ベーデン=パウエル(愛称はレディ・B-P)。オレブとの間に一男二女(ピーター(命名は『ピーター・パン』から)、ヘザー・グレイス、ベティ・セントクレアー)を授かる。

軍人として最初期から、それまでの懐中時計に代えて積極的に腕時計を利用した人物でもあり、自著『マタベレの戦い』(1897年)にはリストウォッチに対する言及があり、これはこの言葉の用例としては最古のもの。また1895年7月に撮影されたとおぼしき彼の写真にはレザー・キャップ(革サック)型の腕時計をした姿が残っており、これは写真に残った男性用腕時計の記録としては最古のものと思われる[1]アフガニスタンにおいて、手旗信号を初めて陸上で使用した軍人でもある(それまでは海軍で用いられていた)[2]

ボーイスカウトでは、創始者である彼への敬意を表すため、彼の誕生日である2月22日に近い活動日に、B-P祭という団集会をする慣例がある。

絵画や彫刻にも長け、自筆の水彩画やペン画のイラストは自著の挿絵として数多く用いられた。

年譜

  • 1857年 2月22日イギリスロンドン市内パディントンで生まれる。
  • 1860年 父が死亡。父を称えて家族は姓をパウエルからベーデン=パウエルに改めた。B-Pの母は35歳にして6男(ワリントン、ジョージ、アウグスタス、フランシス、彼、ベーデン)1女(アグネス)の7人の子供達を養うことになる。
  • 1868年 ローズ・ヒルスクールへ入学。
  • 1870年 サリー州ゴダルミングのチャーターハウス・スクールへ入学。
  • 1876年 俳優になりたいという夢を母親に反対されて受験したオックスフォード大学ベリオール・カレッジとクライストチャーチ・カレッジへの入学に失敗(この時の数学の試験官はルイス・キャロルで、B-Pのテストの出来について酷評した記録が残っている。[3])。イギリス陸軍に入隊。第13軽騎兵連隊と共にインドラクナウに駐在。
  • 1877年 中尉に昇進。
  • 1878年 健康状態の悪化のため帰国。
  • 1880年 第13軽騎兵連隊へ再任し、アフガニスタンカンダハールへ移駐。
  • 1881年 連隊がムトラへ移動。大尉に昇進。
  • 1884年 最初の著書「偵察と斥候術」が出版される。連隊は南アフリカダーバンへ。
  • 1885年 ドラケンスバーグ山脈への独行偵察(3週間、600マイル)に成功。連隊はイギリス・ノリッチへ帰還。
  • 1886年 ロシア陸軍ドイツ陸軍の演習を個人的にスパイし、新型の機関銃サーチライト飛行船の情報を収集して持ち帰る。
  • 1887年 1月、ドイツ陸軍・フランス陸軍の演習をスパイ。の収集家に変装して偵察旅行を行い、蝶の羽根のスケッチに偽装して敵の軍事施設の見取り図を描いたエピソードは有名。12月、ヘンリー・スミス将軍の副官として再びアフリカへ。
  • 1888年 ナタールにおけるズールー族との戦いで、ズールーの族長ディズニル(ディニズールー)が放棄した集落から戦利品として、木製(アカシア・イエロー製)のビーズ数千個に紐を通した3mを超える長さの首飾りを手に入れる(このビーズが後のウッドバッジトレーニング(ボーイスカウトのリーダー研修)の修了した証である「ウッドバッジ」となった)。2008年現在では、当時のオリジナルビーズは、数か国でナショナルディレクターの証として使われており、英国連盟では6ビーズが制定されている。
  • 1895年 フランシス・スコット卿の副官としてナタール州に移駐。マタベルの反乱においてズールー族、アシャンティの諸部族との戦いに参加。部族民たちは、B-Pの勇気、斥候技術、驚くべき追跡能力を見て、敵である彼を尊敬し、眠らないオオカミを意味する「インペーサ」の名を与えた。中佐に昇進。
  • 1897年 大佐に昇進。彼は第5竜騎兵部隊を指揮するためインドに戻った。彼がここで発揮した斥候技術と教育システムは上層部に強い感銘を与えた。
  • 1899年 ボーア戦争におけるマフェキングの包囲戦南アフリカマフェキングで8000人以上の敵軍に217日間(1899年10月13日 - 1900年5月17日)包囲され、これに対して極少ない手勢(2個大隊及びマフェキングの一般市民)で勇戦。この時、9歳以上の少年達をサー・エドワード・セシル少佐を司令官とした「マフェキング見習兵団」として組織。軍事情報の伝達、普通郵便の配達などの伝令業務と、当番兵、見張り役などとして重用した。少年達は徒歩、あるいは自転車を用いて任務を果たし、B-Pはその勇気と機知に感銘を受ける。
  • 1900年 5月16日深夜から17日早朝にかけて、救援部隊がボーア軍の包囲を突破し、マフェキングが解放される(この救援部隊にはB-Pの弟、ベーデン・ベーデン=パウエルも配属されていた)。この軍功により史上最年少の陸軍少将に昇任。南アフリカ警察隊の創立に着手。帰国後、“マフェキングの英雄”と呼ばれ、国中から賞賛される。その後、英国は同戦争で勝利する。
  • 1903年 陸軍監察長官に就任(1907年まで在職)。
  • 1904年11月 イートン校での講演で、ドイツの脅威と祖国防衛の必要性を訴え、日本武士道への賞賛、中世騎士道の復活を提唱した。
  • 1906年6月 雑誌「ボーイズ・ブリゲード・ガゼット」に「スカウティング・フォア・ボーイズ」の第一回が掲載される。これは編集者による大幅なカットがされたダイジェスト版であったが、それでも少年達に大好評を博し、これに影響された彼らは自主的に班を作り、“パトロール”活動を始める。これがボーイスカウトの基礎となった。7月、「シートン動物記」の作者アーネスト・トンプソン・シートンと知遇を得、互いの著書についての意見交換を行った(後にシートンは米国ボーイスカウト連盟の総長となる)。B-Pは、技能賞のバッジシステム、班名に動物の名前をつかうこと、各種のゲームなどについてをシートンの著作から採用している。
  • 1907年6月 新聞・雑誌界の大立者アーサー・ピアスンから資金的な協力を取り付ける。8月1日ブラウンシー島にて様々な地域や階層出身の21名の少年と共にブラウンシー島キャンプを行い、ボーイスカウトの実験を行う(スカウトの最初のキャンプ)。叙勲。
  • 1908年1月28日 ロンドンに事務所を開設し、ボーイスカウト英国本部を設置。隔週発行で1冊4ペンスの「スカウティング・フォア・ボーイズ」を6分冊として発刊。
  • 1909年 いわゆる「無名スカウトの善行」によりスカウト運動がアメリカ合衆国へ伝わる(ただし、既に米国でもスカウティングそのものは行なわれていた)。
  • 1910年5月7日 陸軍を退役。その後、ボーイスカウト運動に専念する。米国ボーイスカウト連盟結成。妹のアグネス・ベーデン=パウエルがガールガイド(ガールスカウト)を創設する。
  • 1911年 ジュリエット・ローと知り合う。乃木希典大将と会見。
  • 1912年1月 国王ジョージ5世が法人設立国王勅許状に署名し、英国ボーイスカウト連盟が公認される。B-P、世界一周旅行に出発。アメリカ、パナマを経て日本を訪問する。ジュリエット・ローとの婚約を破棄、10月30日に当時23歳だったオレブ・セントクレア・ソームズと結婚(この時B-Pは55歳)。結婚式は、お祭り騒ぎになるのを嫌った2人の意向により、ドーセット州パークストーンのセント・ピータース教会で、ごく親しい友人のみで執り行われた。
  • 1919年 自らの地所ギルウェル・パークに隊長訓練所を開設。これは後にギルウェルコース、現在のウッドバッジコースに発展する(諸外国におけるウッドバッジコースとは日本における実修所に相当する)。
  • 1920年 第1回世界ジャンボリーにおいて、参加しているスカウトから「世界の総長(チーフ・スカウト・オブ・ザ・ワールド)」に推挙される。
  • 1921年5月17日 ロンドンにおいて、イギリス訪問中の昭和天皇(当時は皇太子)に謁見し、英国ボーイスカウト連盟の最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈呈する。
  • 1922年 準男爵に叙任される。
  • 1923年 ビクトリア十字勲章を授与される。
  • 1927年 ノーベル平和賞の最終候補まで残るが、受賞を逃す。
  • 1929年 イギリス国王ジョージ5世から初代ベーデン=パウエル男爵に叙される。
  • 1934年 前立腺摘出の手術をうけ、一時危篤状態となる。
  • 1935年 国際委員会(当時、現在の世界スカウト委員会)によりブロンズ・ウルフ章が贈られる。
  • 1937年 8月9日、第5回世界ジャンボリー(オランダハーグ)において、参加した2万7000人のスカウトに別れのスピーチを行う。
  • 1938年 ケニアニエリコテージを購入。そこをパックス・トゥ(Paxtu)と名づけ、転居。
  • 1939年 ノーベル平和賞の受賞が決定されたが、第二次世界大戦のためノーベル平和賞自体が取り消される。
  • 1941年1月8日 午前5時45分、激務で弱った心臓が鼓動を止めた。遺体はケニア山の麓ニエリに葬られたが、墓碑はロンドンのウェストミンスター寺院にあり、現在もボーイスカウトとガールスカウトの旗で飾られている。

称号

  • マフェキングの英雄
  • 男爵(マフェキング男爵にとの声が高かったが、本人の強い希望によりギルウェル男爵となった)
  • ボーイスカウトの「世界の総長」(チーフ・スカウト・オブ・ザ・ワールド)
  • ノーベル平和賞候補

著作

  • Reconnaissance and Scouting (偵察と斥候術)1884年
  • Calvary Instruction(騎兵教範) 1885年
  • Pig-Sticking or Hog-Hunting (猪突き、または豚狩り) 1889年
  • The Downfall Prempeh (プレンペの没落) 1896年
  • The Matable Campaign (マタベレの戦い) 1897年
  • Aide to Scouting for N.C.Os and Men (下士官と兵士のための斥候術の手引き) 1899年
  • Sport in War (戦争におけるスポーツ) 1900年
  • Notes and Instructions for the South African Constabulary (南アフリカ警察隊のための指導要領) 1901年
  • Sketches in Mafeking and East Africa (マフェキングと東アフリカのスケッチ) 1907年
  • Scouting for Boysスカウティング・フォア・ボーイズ) 1908年(初版)
    • 『スカウティング・フォア・ボーイズ』ボーイスカウト日本連盟 (日本語訳版)
  • Yarm for Boy Scouts (ボーイスカウトのための冒険談) 1909年
  • Scouting Games (スカウティング ゲーム) 1910年
  • Handbook for Girl Guides(ガールガイドのためのハンドブック) 1912年…妹アグネス・ベーデン=パウエルと共著
  • Boy Scouts Beyond the Seas (海外のボーイスカウト) 1913年
  • Quick Training for War (戦争のための緊急訓練) 1914年
  • Indian Memories (インドの思い出) 1915年
  • My Adventure as a Spy/ The Adventure of a Spy(スパイとしての私の冒険) 1915年
  • Young Knights of the Empire (帝国の若き騎士たち) 1916年
  • The Wolf Cubs Handbook (ウルフカブズ ハンドブック) 1916年
  • Girl Guiding(ガール ガイディング) 1918年
  • Aids to Scoutmastership(隊長の手引き) 1920年
  • What Scouts can Do(スカウトが成し得る事) 1921年
  • An Old Wolf's Favourites(ある老ウルフのお気に入り) 1921年
  • Rovering to Successローバーリング・ツウ・サクセス) 1922年…元々は息子ピーターへの遺言として書かれた
    • 『ローバーリング・ツー・サクセス』ボーイスカウト日本連盟 (日本語訳版)
  • Life's Snag and How to Meet Them(人生の障害とその対応の仕方) 1927年
  • Scouting and Youth Movements(スカウティングと青少年運動) 1929年
  • Lessons from the Varsity of Life(人生という大学からの教訓) 1933年
  • Adventure and Accidents(冒険と事故) 1934年
  • Scouting Round The World(世界をめぐるスカウティング) 1935年
  • Adventuring to Manhood(一人前の男への剣路) 1936年
  • African Adventure(アフリカでの冒険) 1937年
  • Birds and Beasts of Africa(アフリカの鳥獣) 1938年
  • Paddle Your Own Canoe(自分のカヌーは自分で漕げ) 1939年
  • More Sketches of Kenya(ケニアのスケッチ 第2集) 1940年

Baden-Powellの発音

ベーデン=パウエル自身が自著「The Scoutmasters Guide from A to Z」に、

  • 「Baden」を「Maiden」のように発音する
  • 「Powell」を「Noel」のように発音する

と書いている。[4]

  • 日本のガールスカウトでは、ロバートベーデン=ポウエルとも呼んでいる

関連事項

  • ボーイスカウト
  • ガールスカウト
  • ベーデン=パウエル・ハウス
    ロンドンのクイーンズゲートにはベーデン=パウエル・ハウス (Baden-Powell House) というスカウト協会が運営する宿泊施設があり、B-Pの生涯について展示した私立博物館が併設されている。
  • ベーデン=パウエル山Mount Baden-Powell
  • ベーデン=パウエル・ピーク
    2007年のボーイスカウト発祥100周年記念に合わせ、ネパール王国とボーイスカウトネパール連盟などが協力し、Baden-Powel Peakという山(標高5825m)と、Baden-Powel Trekという登山エリアを設定した。

参考文献

  • ウィリアム・ヒルコート 著 根岸眞太郎 監修 安齋忠恭 監訳『ベーデン・パウエル 英雄の2つの生涯』産調出版
  • 永瀬唯 著『疾走のメトロポリス 速度の都市、メディアの都市』INAX叢書
  • 永瀬唯 著『腕時計の誕生 女と戦士たちのサイボーグ・ファッション史』廣済堂
  • 田中治彦 著『ボーイスカウト 二〇世紀青少年運動の原型』中公新書

脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 永瀬唯 著『腕時計の誕生 女と戦士たちのサイボーグ・ファッション史』廣済堂ライブラリー、2001
  2. ^ 永瀬唯 著『疾走のメトロポリス 速度の都市、メディアの都市』INAX叢書、1993
  3. ^ ウィリアム・ヒルコート 著 根岸眞太郎 監修 安齋忠恭 監訳『ベーデン・パウエル 英雄の2つの生涯』産調出版
  4. ^ ウィリアム・ヒルコート 著 根岸眞太郎 監修 安齋忠恭 監訳『ベーデン・パウエル 英雄の2つの生涯』産調出版

外部リンク


Bp

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/30 02:48 UTC 版)

bp(びーぴー)
出生名 非公開
出生 1981年10月5日(34歳)・東京都
出身地 日本の旗 日本埼玉県,所沢市
ジャンル J-POP
職業 Sound Producer,Artist
担当楽器 シンセサイザー,ピアノ
活動期間 2000年 -
レーベル Honey Entertainment(2000年 - )
事務所 dEja Production Int'l
公式サイト http://www.djpi.jp/

bp(びーぴー、1981年10月5日)は、日本の音楽プロデューサーラッパーシンガーアメリカ合衆国ニューヨークで活動中はbp a.k.a hayatoと言う名義を使用している。「大田区でプロポーズ」よりbpに変更した。NELO(ネロ)という名義も使用している。

bp

本名は非公開。東京都清瀬市生まれ、埼玉県所沢市出身。djpi(dEja Production Int'l)所属。身長188cm、体重60kg、血液型A型。高校は堀越高等学校卒業。卒業後にニューヨークへ単身渡米する。

プロフィール

ニューヨーク滞在中は地元のバー等でピアニストとして地元ミュージシャンとのセッションをし,自らの活動として自主レーベルを立ち上げニューヨークに滞在中の日本人アーティストを数多くプロデュースする。そして日本でのインターネットを通じプロモーションも開始、メディア出演を果たした。

そして、レーベル所属アーティスとともにLIVEにレギュラー出演、好評を博し2002年9月、日本でチャリティーアルバム「Dear Mama/September Eleventh」を自身のレーベルHoney Entertainmentからリリース。

その後、テツ&トモ安倍なつみ等のメジャーアーティストの楽曲にラッパーとして参加、日本のメジャーレーベルプロダクションでのコンペティションへの参加及び、プロデュースワーク等をこなす。帰国後はホテルやTVプログラム等のBGMをサウンドプロデュース、新人アーティストへの楽曲提供、ボーカルディレクション等をする傍ら、自身のプロダクションをマネージメントしながらアーティストとしても活動している。

ディスコグラフィー

アルバム
  • Love Songs (トータルプロデュース) 2000年末発表
  • DearMama/September Eleventh(トータルプロデュース) 2002年9月11日発売
  • AKIHABARAP/Ito-musen(トータルプロデュース) 2011年8月20日発売
シングル

TV

関連人物

外部リンク


BP (企業)

(BP から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/22 12:02 UTC 版)

ブリティッシュ・ペトロリアム(British Petroleum)
BP p.l.c.
BPheadoffice.JPG
ロンドンセント・ジェームズ・スクウェア1の本社
種類 公開有限会社
市場情報 ロンドン証券取引所ニューヨーク証券取引所フランクフルト証券取引所
略称 BP(2001年から正式名)
業種 石油・石炭製品
資本金 111,465 Million US$[1]
発行済株式総数 374,500,712 株[2]
売上高 連結:375,517 Million US$[3]
営業利益 連結:39,817 Million US$[4]
純利益 連結:26,097 Million US$[5]
純資産 連結:112,482 Million US$[6]
総資産 連結:293,068 Million US$[7]
従業員数 83,400人[8]
決算期 12月末日
主要株主 バロウ・ハンレイ(Barrow Hanley Mewhinney and Strauss, マスミューチュアル系のミューチュアル・ファンド[9]ベアー・スターンズの主要株主であった。)
ディメンジョナル(Dimensional Fund Advisors, HSBCの主要株主)
他にステート・ストリートブラックロックインベスコゴールドマン
(2017年6月30日現在[10]
特記事項:資本金から従業員数までのデータは2011年12月時点のもの
テンプレートを表示

BP(ビーピー、英:BP p.l.c.)は、イギリスエネルギー関連事業を展開する多国籍企業一代貴族を量産してきた国際石油資本の典型。民営化で進められた垂直的統合により、石油天然ガスの探鉱(シュルンベルジェと連携)から採掘、輸送(パイプラインふくむ)、石油精製、小売まで一括で行う。他のスーパーメジャーと同じく、裾野がさらに広い。天然ガスの生産とそれを利用した発電事業、再生可能エネルギーとしての太陽光発電風力発電石油化学製品の製造・販売も手がけている。

グリーンウェイ会長

オーストラリアで財をなしたウィリアム・ノックス・ダーシー(William Knox D'Arcy)が、1901年からイラン油田探査を続けていたが、数年で資金に窮してイギリス行政当局の介入を受け入れた。1905年、ダーシーが募ったシンジケートにバーマ・オイルが参加し経営権を獲得した。1908年に中東で最初の油田を発見(Masjed Soleyman)、翌年4月アングロ・ペルシャン・オイル・カンパニー(APOC)を開業した。この会社の持分は当然バーマ・オイルがほぼ全部を握っていた。1910年にバーマ・オイルからマネージング・ディレクターとしてグリーンウェイ(Charles Greenway, 1927年に男爵)が送り込まれ、第一次世界大戦開戦の年に会長となった。[11]

この1914年、APOCがイギリス海軍と燃料供給についての長期契約を締結。イギリス政府がBPに200万ポンドを投資し、2/3の株式を取得した。これは設備投資のためであり、それまで精製・運搬・販路すべてにおいて不自由していた。APOCの資金は違った使われ方をしていた。1912年カルースト・グルベンキアンが設立したイラク石油会社(Iraq Petroleum Company)に50%も参加していた。この年にロイヤル・ダッチ・シェルがAPOCの市場開拓と製品販売を10年契約で請け負った(British Tanker Company)。勢いづいたシェルがAPOCを買収しかけたところ、グリーンウェイがウィンストン・チャーチルと交渉し、軍との契約にこぎつけたのであった。政府はマーガレット・サッチャーに民営化されるまで議決権を行使することがなかった。[12]

1917年、APOCがブリティッシュ・ペトロリアムを買収した。これは欧州石油連合(European Petroleum Union)の子会社であった。欧州石油連合の主要株主はドイツ銀行であったので、欧州石油連合は敵性資産としてイギリス政府に接収されていた。その後APOCを民営化する提案が政府側から浮上した。しかしこれは1924年11月に政府持分を維持する方向で決着した。[11]

赤線協定から民営化まで

1927年にキャドマン(John Cadman)が会長となり、翌年に国際カルテルとして赤線協定を結んだ。世界恐慌においても国際石油資本は生産量を伸ばしていったが、しかしキャドマンはイラン政府に払うロイヤリティーを減らした。レザー・パフラヴィーが怒って1932年11月に開発許可を取り消した。この紛争が最終的に国際連盟に持ち込まれ、将来60年間を対象とする和解に達した。APOCの開発可能区画は当初の約1/4に減らされ、原油重量に対して支払われる新しいロイヤリティーの割合も定められた。1935年、APOCの社名が変更されてアングロ・イラニアン石油会社(Anglo-Persian Oil Company)となった。第二次世界大戦中イラン政府が次の地域における会社利益の半分をロイヤリティーとして要求した。1948年ベネズエラ、1950年サウジアラビアについて、それぞれ現状に燃え上がる不満を申し立てたのである。交渉は決裂してしまい、モハンマド・モサッデクが1951年5月1日に国内石油産業を国有化した(アーバーダーン危機)。イギリス政府とアメリカのCIAが動き、1953年に彼を失脚させた。翌年、APOC後継の新ブリティッシュ・ペトロリアム(The British Petroleum Co Ltd. 以下BP)が設立され、IOPというコンソーシアムで最大の40%が割り当てられた。[11]

ルマイラ油田を発見したBP はイラククウェートへ進出し、また世界のあちこちに精製所を増やした。欧州、オーストラリア、そしてアデンである。カナダへはロスチャイルド関係資本の一つとして参入した(BP Canada)。

1965年、BP はイギリスの経済水域北海のガス田を発見した。1970年10月には油田を発見した(Forties Oil Field)。

1969年、BPがプルドーベイ油田の一つを発見した。そばの油田をすでに見つけていたアトランティック・リッチフィールド・カンパニー(ARCO, アルコ)がライバルとなった。このアルコはオイルショックのあと1976年ペトロ・カナダに買収され、1977年にアナコンダ銅鉱山会社を買収し、同年トランス・アラスカ・パイプラインの21%を支配することにもなった。

1979年イラン革命が起きてイラン国内の事業が無補償で国有化された。革命の年に英国政府がBPに対して保有する8000万株が放出された。1987年に完全民営化されるとき、政府株31.5%が売り出されてクウェート投資庁が21.6%を取得したが、英財務省の要求で9.6%に減らされた。また、この年BPはオフショア市場化して間もない東京証券取引所に上場した。

スマートグリッドが迫る

1989年、エマソン・エレクトリック出身のホートン(Robert Horton)がBP会長となった。彼の指導によりBPは伝統的分野と石油化学工業において垂直的統合を進めた。ホートンは16%も労働力をリストラしたが、粗利を2年間で145億ドルも減少させて会社を赤字へ転落させたので、1992年に辞めてレールトラックの会長となった。それから3年間でBP はさらに9000人を解雇した。1995年、サイモン(David Simon, 2004年からユニリーバ顧問)が新会長となった。1997年まで活躍したが、その間BP は中国石油化工の子会社(Shanghai Petrochemical)との合弁事業を拡大させ、日本へのスタンド進出を表明し、ロシアのシダンコ(Sidanko)に10%参加した。

1998年12月、BP はジョン・ロックフェラー創業のアモコ(Amoco)と合併しBPアモコとなった。BPの株主はブラウネ(John Browne)を代表として60%参加した。新会社は2000年にバーマ・カストロールとアルコを買収した。一連の経営統合は競争回避につながった。2001年、会社は現社名を採用した。2002年6月、ペトロ・カナダを伴ってE.ONがVEBA系列に持っている16億ドル級の石油事業を買収した。その代わりBP は、7月に普仏戦争から交戦国間で開発競争の焦点となっていたゲルゼンキルヒェンの子会社を売却した。2003年、BP はインドネシアのKP石炭とタングー油田(Tangguh gas field)、それから北海油田、その他世界中の事業を売却して事業を縮小し、ロシアと出資を折半でチュメニ油田開発会社(TNK-BP)を設立した。2004年、中国石油天然気の株を2%売却して16.5億ドルを得た。2005年、テキサスシティ製油所爆発事故を起こした。この年も事業売却が行われ、イネオス(Ineos)へ化学工業を譲り渡し90億ドルを得た(Innovene)。2006年、プルドーベイでパイプラインが腐食してオイル漏れが起きた。メキシコ湾事業のアパチェ(Apache Corporation)に対する移管も進んだ。2007年、アソシエイテッド・ブリティッシュ・フーズおよびデュポンと合弁会社を設立した(Vivergo Fuels)。ブラウネが引退し、BP の経営陣は現在のものとなった。

2008年、申請により東京証券取引所の上場を廃止した。世界金融危機以降も試練は続いた。BP はチュメニ油田開発会社をめぐりロシアと紛争となった。2010年メキシコ湾原油流出事故が発生したときは、被害回復のため200億ドルを拠出することで、オバマ大統領と合意した。しかし決着せず、米司法省、環境保護庁、運輸省からプルドーベイの件も絡めて民事訴訟を提起された。2011年5月BP は、環境保全に6000万ドルを、民事賠償として2500万ドルを、それぞれ払うことに合意した。2012年、社長のダドリー(Bob Dudley)がプーチンに押し切られて、チュメニ油田開発会社の持分をロスネフチへ売却することになった。

日本での展開

日本ではBPとカストロールの両ブランドを扱っており、BPジャパン株式会社で船舶用燃料と潤滑油、工業用潤滑油などの石油製品の販売、ならびに天然ガス販売のマーケティング、石油化学製品の販売などを手がけている。自動車エンジンオイル事業は、ビーピー・カストロール株式会社で行っている。

なお、かつてはベイシアグループとともに「BP EXPRESS」としてセルフ式のガソリンスタンドをベイシアグループのショッピングモールで21箇所展開していた[13]。しかし、業績不振のために2002年8月1日、ジャパンエナジーが同業態を専門的に運営する新会社「株式会社ジェイ・クエスト」を設立し、ガソリン販売からは撤退した[14]

脚注

BPのガソリンスタンド
BPのオイルトレイン

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※この記事は「財務省」ホームページ内の「国際関係略語集」の2008年10月現在の情報を転載しております。
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