ビムセン・タパとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ビムセン・タパの意味・解説 

ビムセン・タパ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/12 08:19 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ビムセン・タパ

ビムセン・タパネパール語: भीमसेन थापा英語: Bhimsen Thapa1775年8月 - 1839年8月5日)は、ネパール王国首相マートバル・シンハ・タパは甥、ジャンガ・バハドゥル・ラナは大甥にあたる。

首相任期は次のとおり。

  1. 1806年4月 - 1837年

生涯

法王ラナ・バハドゥル・シャハがパタンで統治を始めたとき、ダモダル・パンデやキルティマン・シンハ・バスネットらは王を奉じ、首都をヌワコートに移した。法王は軍をヌワコートに向かたが、軍は王やダモダルらについたため、1800年に法王はビムセンをはじめとする重臣らとともにヴァーラーナシーへ赴いた[1]

1804年、ビムセンは法王を助力し、法王はビムセンとともにひそかにカトマンズに戻った。ダモダルはその後とらえられ、その支持者とともに処刑された。法王の新しい王妃はタパ家から迎えられた[2]

1804年、ラナ・バハドゥルはパルパの制圧なくしてはネパール全土を統一できないので、そこで執政ビムセン・タパと一計を案じ、パルパ王をネパールに招き、そのまま投獄した[3]。その後、ビムセンに率いられた軍が難なくパルパを制圧した。

1806年、ラナ・バハドゥルが暗殺されると、ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハのもとで執権に任じられた。

1816年、ギルバン・ユッダが死亡し、息子ラジェンドラ・ビクラム・シャハが即位すると、故ラナ・バハドゥルの王妃でタパ家出身のラリト・トリプル・スンダリー・デビーが摂政となった[4]。これにより、ビムセンは全権を掌握し、様々な改革を行った。

だが、1833年に摂政が死ぬと、その力に陰りが見え始めてきた[5]。加えて、ラジェンドラ王の第一正妃サムラージャ・ラクシュミー・デビーが敵対してきたことや、失脚したパンデ一族が復権してきたことで、その地位は危うくなった[5]

1837年、ビムセンはラジェンドラ王の息子デベンドラ王子暗殺の罪を着せられ投獄された[6]。その後、ダモダルの息子ラナ・ジャンガ・パンデが執権職に就いた。

1838年8月5日、ビムセンは獄中で自殺した[7]。その遺体は切り刻まれ、道にばらまかれて犬や鳥などの餌になったと伝えられている[7]

脚注

  1. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.509
  2. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.509
  3. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.507
  4. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.524
  5. ^ a b 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.529
  6. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.530
  7. ^ a b 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.531

参考文献

  • 佐伯和彦 『ネパール全史』 明石書店、2003年。 

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ビムセン・タパ」の関連用語

ビムセン・タパのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ビムセン・タパのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのビムセン・タパ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS