西方への進出、ネパール全土の統一
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「ネパールの統一」の記事における「西方への進出、ネパール全土の統一」の解説
1781年、第3代ネパール王ラナ・バハドゥル・シャハの治世、再び二四諸国の連合軍が戦いを挑んできたが、これはアマル・シンハ・タパによって撃退された。さらに翌年からは反撃を行い、二二諸国、二四諸国のいくつかを制圧した。 1785年、王の叔父バハドゥル・シャハが摂政となると、武力至上主義の彼は二二諸国、二四諸国の統合を目指した。彼は二四諸国で最も強力であったパルパに目を付け、その王と友好関係を深め、制圧した諸国の割譲を約した。ネパールとパルパの連合軍はベリ川までの諸国を制圧し、パルパにはグルミ、アルガ、カンチーの三国を割譲した。さらにネパール軍は西方の諸国を制圧、アルモーラー、ガルワールにまで進出し、ガルワール王国の首都シュリーナガルにまで進出しした。 1804年、すでにギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハに王位を譲り法王となっていたラナ・バハドゥルはパルパの制圧なくしてはネパール全土を統一できないので、その制圧を考えた。そこで執政ビムセン・タパと一計を案じ、パルパ王をネパールに招き、そのまま投獄した。その後、ビムセン・タパの軍がパルパへと進撃し、難なく制圧に成功した。 かくして、ネパール王国によるネパール統一がなされたわけである。だが、パルパを制圧したことにより、インドを支配していたイギリスとの緊張感が高まり、ひいてはグルカ戦争につながっていった。
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