スバルナ・プラバー・デビーとは? わかりやすく解説

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スバルナ・プラバー・デビー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 15:52 UTC 版)

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スバルナ・プラバー・デビー
Subarna Prabha Devi
ネパール王妃

出生 1779年
死去 不詳
配偶者 ラナ・バハドゥル・シャハ
子女 ラノディヨート・ビクラム・シャハ
シャムシェル・シャハ
宗教 ヒンドゥー教
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スバルナ・プラバー・デビー(Subarna Prabha Devi, 1779年 - 没年不詳)は、ネパール王国の君主ラナ・バハドゥル・シャハの第二正妃。

生涯

1793年以前、ネパール王ラナ・バハドゥル・シャハと結婚した[1]

1799年、ラナ・バハドゥルは溺愛した内妃カンティワティー・デビーとの間に生まれた庶子ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハに王位を譲った[2]。だが、これはスバルナ・プラバーとの間に生まれた嫡子ラノディヨート・ビクラム・シャハを差し置いての譲位であった[2]。だが、ラナ・バハドゥルは重臣ら95名に譲位を認める起請文を書かせたうえ、その戴冠式にはパルパ王プリトヴィーパーラ・セーナも招待させるなどし、この譲位を認めさせた[2]

譲位後、ラナ・バハドゥルは第一正妃ラージ・ラジェシュワリー・デビーを摂政に任じ、愛妃カンティワティーとともにデウパタンへと移った[3]。 その後、ラナ・バハドゥルがダモダル・パンデとの対立でヴァーラーナシーへ赴くと、ラージ・ラジェシュワリーもそれに合流した[3]。そのため、第二正妃のスバルナ・プラバー・デビーがダモダルによって、新たな摂政につけられた[3]

のち、ラナ・バハドゥルはラージ・ラジェシュワリーをカトマンズに送り返し、自身もビムセン・タパの助力でカトマンズに戻った[4]。これにより、スバルナ・プラバーはラージ・ラジェシュワリーに摂政を交代した。

脚注

  1. ^ Nepal 6
  2. ^ a b c 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.507
  3. ^ a b c 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.508
  4. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.509

参考文献

  • 佐伯和彦 『世界歴史叢書 ネパール全史』 明石書店、2003年。 

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