カンティワティー・デビーとは? わかりやすく解説

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カンティワティー・デビー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 09:47 UTC 版)

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カンティワティー・デビー
Kantiwati Devi
ネパール王妃

出生 不詳
死去 1799年10月31日
デウパタン
配偶者 ラナ・バハドゥル・シャハ
子女 ギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハ
宗教 ヒンドゥー教
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カンティワティー・デビー(Kantiwati Devi, 生年不詳 - 1799年10月31日)は、ネパール王国の君主ラナ・バハドゥル・シャハの内妃(側室)。カンタワティー・デビー(Kantawati Devi)とも呼ばれる。

生涯

1797年1月、ネパール王ラナ・バハドゥル・シャハと結婚した[1]ブラーフマナの娘であったが、ラナ・バハドゥルの内妃として寵愛を受けていた。ヒンドゥー教の教えでは、クシャトリヤとブラーフマナの結婚は認められておらず、堕落行為とみなされていた[2]。そのため、この結婚は当時の保守社会には耐えがたいほどの異例であった、と佐伯は述べている[2]

1799年、ラナ・バハドゥルは嫡子を差し置いて、カンティワティーとの間に生まれたギルバン・ユッダ・ビクラム・シャハに王位を譲って出家した。だが、この譲位は嫡子を差し置いての譲位であったため反対が多く、ラナ・バハドゥルは重臣ら95名に譲位を認める起請文を書かせたうえ、その戴冠式にはパルパ王プリトヴィーパーラ・セーナも招待した[2]

譲位後、ラナ・バハドゥルは第一正妃ラージ・ラジェシュワリー・デビーを摂政に任じ、カンティワティーとともにデウパタン移り住んだ[3]。だが、まもなくカンティワティーは病に倒れたため、ラナ・バハドゥルはブラーフマナの助言に従ってパタンに移り住み、神々へのあらゆる礼拝供養、多額の布施行を行った[3]

しかし、その甲斐も虚しく、同年10月31日にカンティワティーは死去した[4]。この死へのラナ・バハドゥルの怒りはすさまじく、神やブラーフマナを罵り、神像を破壊するなど過激な行動に走るほどだった[3]

脚注

  1. ^ Nepal 6
  2. ^ a b c 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.507
  3. ^ a b c 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.508
  4. ^ Nepal 6

参考文献

  • 佐伯和彦 『世界歴史叢書 ネパール全史』 明石書店、2003年。 

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