帝政中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 04:36 UTC 版)
「イタリア本土 (古代ローマ)」の記事における「帝政中期」の解説
ユリウス=クラウディウス朝、フラウィウス朝、ネルウァ=アントニヌス朝を経てセウェルス朝に入った辺りから、帝国の繁栄に陰りが見え始める。イタリア本土もまた、カラカラ帝がアントニヌス勅令によって全属州民を本国民としたことで、帝国本土としての立場がほとんど失われてしまった。セウェルス朝断絶後の3世紀の危機(軍人皇帝時代)は内乱と蛮族の侵入を招き、3世紀末には遂にイタリアにまで戦火が及ぶようになった。 このような状態で皇帝となったディオクレティアヌス帝は新たな制度改革を推し進め、いわゆるテトラルキア制による帝国領土の4分割を行った。テトラルキアにより帝国の属州は4つの地方領へと再編成され、また皇帝権も2人の正帝(東方正帝・西方正帝)と2人の副帝(東方副帝・西方副帝)によって4つに分権された。改革の結果、帝国を実質的に支配する皇帝や副帝たちはそれぞれの地方領の中心都市に常駐するようになり、首都ローマの統治はローマ市長官()が行うことが一般となった。帝国の首都は引き続き元老院があるローマ市とされていたが、皇帝や副帝が常在する各地方領の主要都市が帝国の新たな政治・経済・軍事の中心となり、元老院と皇帝がともにローマ市にあった時代に比べれば帝都ローマの地位は低下した。そして本土の要であるローマ市の失墜はイタリアの重要性をも失わせた。 またテトラルキア制の中で、イタリアはイタリア・北アフリカといった南西部を担当する西方皇帝の地方領へ編入されたが、西方皇帝支配下のイタリアは「首都近郊管区」と「食糧供給区」へと更に分けられていた。ローマ市への食糧供給を維持するため、地方領の中心都市メディオラヌムの支配を受ける地域(食糧供給区)とは別に、それまで通り帝都ローマを中心とする地域(首都近郊管区)を設けたものである。加えてイタリア地方領を差配する西方皇帝(西方正帝)にとって、イタリア本土無しに他の地方領と対等な働きを行うことは不可能であった[要出典]。故にイタリア本土は行政区を再編した上で食糧供給区と首都近郊管区に分けられたが、これは長年一致してきた本土行政区が2つに分断されることを意味した(ただし食糧供給区と首都近郊区の長官は同一人物が兼任していた[要出典])。一方、シキリアやサルディニア・コルシカといったイタリア離島部は新たに首都近郊管区へ編入された。 イタリア首都近郊管区(Italia suburbicaria)「トゥーシア・エト・ウンブリア」(Tuscia et Umbria) 「ウァレリア」(Valeria) 「カンパニア・エト・サムニウム」(Campania et Samnium) 「アプリア・エト・カラブリア」(Apulia et Calabria) 「シキリア」(Sicilia) 「サルディニア・エト・コルシカ」(Sardinia et Corsica) イタリア食料供給区(Italia annonaria)「ウェネティア・エト・ヒストリア」(Venetia et Histria) 「アエミリア・エト・リグリア」(Aemilia et Liguria) 「フラミニア・エト・ピケヌム」(Flaminia et Picenum) 「ラエティア」(Raetia) 「アルペス・コッティアエ」(Alpes Cottiae)
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