軍人皇帝時代とは? わかりやすく解説

軍人皇帝

(軍人皇帝時代 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/19 13:57 UTC 版)

ローマ帝国の属州

軍人皇帝(ぐんじんこうてい)は、ローマ帝国3世紀の危機と呼ばれた時期に、主に配下の軍事力を背景に廃立された諸皇帝をいう。

軍人皇帝時代

235年から284年の間、軍人皇帝が乱立した時代を軍人皇帝時代(ぐんじんこうていじだい)と称する。

具体的には、アレクサンデル・セウェルス暗殺(セウェルス朝断絶)後に即位したマクシミヌス・トラクスから、ディオクレティアヌスに討たれたカリヌスまでの諸皇帝を指す。

元老院が容認した皇帝だけでも、前半の33年間(235年-268年)に14人が擁立された。

さらに、各地の実力者がローマ皇帝号を僭称することも多く、結果として皇帝の権威が失墜、また帝位が頻繁に入れ替わるためほとんど内乱と変わらない状態が長期間続き、これによりローマ帝国の国力は弱体化した。

原因

古代ローマにおいては共和政の時代より、国家の最高指導者がすなわち前線に立つ軍司令官であった。共和政の時代においては、2人の執政官がこの役目を担った。執政官が2人であることからひとりは軍司令官として前線に赴いても、もうひとりの執政官が内政を執ることができ、また2人の執政官が同時に軍司令官として前線に立たねばならない場合にも、代わって内政を担当するのは誰であるかの序列も決まっていた。1年間という執政官の短い任期も、国土の狭い時代には問題無く機能した。

しかしながら、古代ローマが地中海世界全域を支配する巨大な領域国家となって以降は、1年の任期の執政官による統治と軍事指揮というシステムでは機能しなくなった。

帝政に移行後も、国家の最高指導者と前線に立つ軍司令官が同一人物であるというシステムはそのまま継承された。初代皇帝のアウグストゥスをはじめ、多くの皇帝は内乱を勝ち抜いた人物であり、軍事と政治の両方の手腕を持っていた事から問題視はされなかった。アウグストゥス自身は軍才に乏しかったが、腹心アグリッパらに任せることで補った。またクラウディウスも病弱で軍務経験は皆無であったが、実際に軍を指揮する将軍たちの任命について人事の才能を発揮し、ブリタンニア遠征を成し遂げ、皇帝自身に軍才は無くてもシステムとしては問題無く機能した。

しかしながらローマ帝国がたびたび外敵の侵攻にさらされる時代になると、国家の最高指導者と前線に立つ軍司令官が同一人物であるというシステムには弊害が見られるようになった。しかし、終身の存在である皇帝は、おいそれと更迭ができる存在ではなく、軍司令官として無能さを露呈した皇帝を排除するには、叛乱・クーデター・暗殺という非合法な強硬手段に出る以外に選択肢が無くなってしまったのである。また軍司令官である以上、戦死・敵の捕虜になるという事態は、当然のこととして起こり得るものであり、その度に皇帝を選び直さなくてはならない事態が生じた。また選出手段が決まっていた(市民集会の選挙)執政官と違い、皇帝の場合は選出手段が定められておらず、これも混乱の原因となった。事実、軍人皇帝時代以前にも、ネロコンモドゥスの死によってそれまでの皇帝の皇統が断絶したのを切っ掛けに、地方の属州総督[1]が帝位を争って内乱を起こした例が2回ある(ローマ内戦 (68年-70年) (四皇帝の年) と、ローマ内戦 (192年-197年) (五皇帝の年))。

先立つ2世紀後半の気候寒冷化による食糧生産性の低下や、それに伴う不満の鬱積とローマ末端組織の支配力喪失の進行へ対処する為にカラカラ帝が発したアントニヌス勅令により、中央の財政が悪化する。また、外敵の侵入に対応するため属州兵を現地徴募に切り替えた結果、属州への締め付けが効かなくなるという悪循環が止まらない時代であった。

特徴

現在も残るアウレリアヌス城壁

英語ではBarracks Emperror(兵舎の皇帝)、ドイツ語でもSoldatenkaiser(兵隊皇帝)と呼ばれており、この名前の通り、彼らは以前の皇帝とは異なり、旧来の貴族層による擁立ではなく主にローマ軍団の軍事力を背景としたクーデターによることが挙げられる。軍人皇帝の身分は比較的低い出自が多く、たとえば最初の軍人皇帝であるマクシミヌス・トラクストラキア出身の一兵士からの叩き上げであり、マクシミヌス以外にも軍人皇帝たちの多くが名乗るほどの家名や祖先は持たず、彼らの擁立は軍隊の経歴により、その影響力も主として兵士であった。また元老院や貴族層は力を失って国政を動かす影響力に乏しくなり、軍隊の推挙を受けた指導者を追認するだけの存在となった。よって、属州軍により推挙され元老院の認定のないまま皇帝を僭称する軍司令官(僭称皇帝)が乱立した。前線で戦う兵士たちにとって軍司令官として有能な者を皇帝に選ぶのは生活の上でも身の安全の上でも死活問題であり、また元老院を形成する貴族層はかつての経済力や動員力・人脈を失い[2]承認する以外に無かったのである。特に軍人皇帝のひとりであるガッリエヌスによって、軍務の経験者が元老院から分離された事が、この傾向に拍車をかけた[3]

しかし、軍人皇帝たちの多くはローマ帝国国境の軍司令官であったため、帝位の交替のたびに国境防衛に空白を生み、防衛能力の弱体化を招いた。またガリア地域における民心の離反と支配力喪失によりゲルマン人の侵入を容易にし、結果としてアウレリアヌス帝が再びローマに城壁を築くほどであった。皇帝の要件はローマに対する忠誠心を失った知識層や民衆の支持ではなく、相対的に高まった軍属・兵士の支持と、他の属州軍団に立ち勝る軍事力であり、これがなくなると剣によって得た権力を剣によって失うことになった。また、それぞれの属州において兵士がそれぞれ皇帝候補や僭称皇帝を擁立し、それら皇帝候補者の争いによる軍閥内の争いも生じた。

僭称皇帝の中には、ローマに進軍して自らが正規の皇帝になることを試みた者もいた。

ガリアを基盤に自立して260年に皇帝号を僭称したポストゥムスは、その地において事実上の独立国家を造り上げた。これが「ガリア帝国」と通称されている。また、東方のパルミラにおいては267年に「女王」と称されたゼノビアが自らの息子ウァバッラトゥスを擁立して皇帝号を僭称させ、ここでも「パルミラ帝国」と通称される事実上の独立国家が成立した。これにより、ローマ世界は本体の帝国とガリア帝国とパルミラ王国に三分されたことになる。

284年プラエフェクトゥス・プラエトリオであったディオクレスが帝位に就くと、ディオクレティアヌスと名を変え、帝国のシステムを改革する。彼はまた帝国を4分割するというテトラルキアの制度を作り上げた。

後代への影響

軍人皇帝時代は皇帝の背景には軍事力が欠かせない要素ではあったが、その後の皇帝には軍事色が薄くなっていく。

ドミナートゥス(専制君主政)へと帝政を転換させたディオクレティアヌスコンスタンティヌス1世などは皇帝権力を強化し、自らも兵を率いたが、その後は軍務は例えばスティリコのようにマギステル・ミリトゥム(軍司令官)が行い、彼らが帝国の運営の担い手となってゆく。

そして西ローマ帝国では、皇帝はホノリウス帝のように権威色が帯びるものの実際の政治的主導権は一層薄い存在となっていき、最後には傭兵隊長のオドアケルによって西ローマ皇帝は廃されてしまうことになった。

一方、東ローマ帝国ではコンスタンティヌス1世以来の強い皇帝権力が維持・強化され、ユスティヌス1世のように軍出身の皇帝が即位したり、7世紀のヘラクレイオスや10世紀のバシレイオス2世などのように親征を行う皇帝もいた。

軍人皇帝一覧

通称 フルネーム 在位 備考
六皇帝
マクシミヌス・トラクス ガイウス・ユリウス・ウェルス・マクシミヌス 235–238 アレクサンデル・セウェルスより簒奪。六皇帝の1人
マグヌス[英語] ガイウス・ペトレイウス・マグヌス 235 ゲルマニアで皇帝僭称。マクシミヌスの反乱者
クァルティヌス[英語] ティティウス・クァルティヌス 235 オスロエネで皇帝僭称。マクシミヌスの反乱者
ゴルディアヌス1世 マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌス・アフリカヌス 238 アフリカ属州で即位。息子ゴルディアヌス2世は共同皇帝。六皇帝の1人
ゴルディアヌス2世 マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌス・アフリカヌス 238 アフリカ属州で即位。父ゴルディアヌス1世の共同皇帝。六皇帝の1人
プピエヌス・マクシムス マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス 238 バルビヌスと共同皇帝。六皇帝の1人
バルビヌス デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス 238 プピエヌス・マクシムスと共同皇帝。六皇帝の1人
ゴルディアヌス3世 マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・ピウス 238–244 ゴルディアヌス1世の娘で、ゴルディアヌス2世の姉妹であるアントニア・ゴルディアナの息子。六皇帝の1人
サビニアヌス マルクス・アシニウス・サビニアヌス 240 アフリカで皇帝僭称。ゴルディアヌス3世の反乱者
六皇帝以降
ピリップス・アラブス マルクス・ユリウス・ピリップス 244–249 息子マルクス・ユリウス・セウェルス・ピリップスは共同皇帝
パカティアヌス[英語] ティベリウス・クラウディウス・マリヌス・パカティアヌス 248–249 モエシアで皇帝僭称。ピリップスの反乱者
ヨタピアヌス[英語] マルクス・F・R・ヨタピアヌス 248–249 シリア属州で皇帝僭称。同上
シルバナックス[英語] マルクス・シルバナックス 249?/253? ゲルマニア・スペリオルで皇帝僭称?。同上
スポンシアヌス[英語] 不詳 不詳 トランシルバニア地方で皇帝僭称?。同上
デキウス ガイウス・メッシウス・クィントゥス・トライアヌス・デキウス 249–251 ピリップスより簒奪。息子ヘレンニウス・エトルスクスは共同皇帝
リキニアヌス[英語] ユリウス・ウァレンス・リキニアヌス 250 ローマ市で皇帝僭称。デキウスの反乱者
プリスクス[英語] (ルキウスまたはユリウス・ティトゥス)・プリスクス 250 マケドニア属州で皇帝僭称。同上
トレボニアヌス・ガッルス ガイウス・ウィビウス・トレボニアヌス・ガッルス 251–253 ホスティリアヌス(251年)および息子ガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス(251年-253年)と共同皇帝
マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス 253 トレボニアヌス・ガッルスより簒奪。
ウァレリアヌス プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌス 253–260 アエミリウスより簒奪。息子ガッリエヌスと共同皇帝
ウラニウス・アントニウス[英語] ルキウス・ユリウス・アウレリウス・スルプキウス・セウェルス・ウラニウス・アントニウス 253–254 シリアで皇帝僭称。ウァレリアヌスの反乱者
ガッリエヌス プブリウス・リキニウス・エグナティウス・ガッリエヌス 253–268 父ウァレリアヌスの被捕虜後に単独皇帝に即位。ガリア帝国パルミラ帝国など各地で分離勢力による反乱が頻発する中、軍人皇帝時代最長となる15年もの治世を維持した。
プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス 260 ガッリエヌスの息子で共同皇帝。ガリアの叛乱者ポストゥムスによって殺害される。
インゲヌス[英語] 不詳 260 シルミウムで皇帝僭称。ガッリエヌスの反乱者
レガリアヌス[英語] プブリウス・C・レガリアヌス 260 パンノニアで皇帝僭称。同上
マクリアヌス・ミノル ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・マクリアヌス 260–261 同名の父マクリアヌス・マヨルの計らいにより弟クィエトゥスとともに皇帝を僭称する。同上
クィエトゥス ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス 260–261 マクリアヌス・マヨルの息子で兄弟マクリアヌス・ミノルの僭称共同皇帝。同上
バッリスタ 不詳(カッリストゥス?) 260–264 マクリアヌス親子らに加勢して皇帝を僭称する。同上
テッサロニクス[英語] ウァレンス・テッサロニクス 261 アカエア(ギリシア)で皇帝僭称。同上
ピソ[英語] ルキウス・カルプルニウス・ピソ・フルギ 261 アカエアで皇帝僭称。同上
ムッシウス・アエミリアヌス[英語] ルキウス・ムッシウス・アエミリアヌス 260-261 アエギュプトゥスで皇帝僭称。同上
ケルスス[英語] ティトゥス・コルネリウス・ケルスス 不詳 アフリカ属州で皇帝僭称。同上
トレベッリアヌス[英語] 不詳 不詳 小アジアで皇帝僭称。同上
アウレオルス[英語] 不詳 268 パンノニアで皇帝僭称。同上
クラウディウス・ゴティクス マルクス・アウレリアヌス・クラウディウス 268–270 ガッリエヌスより簒奪。
サトゥルニヌス[英語] 不詳 268 クラウディウスの反乱者
ケンソリヌス[英語] アッピウス・クラウディウス・ケンソリヌス 269–270 イタリア本土で皇帝僭称?。クラウディウスの反乱者
クィンティッルス マルクス・アウレリアヌス・クラウディウス・クィンティッルス 270 クラウディウスの弟。
ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス 270–275 クィンティッルスより簒奪。ガリア帝国パルミラ帝国を滅ぼし、ローマ帝国の再統一を達成。
ドミティアヌス2世[英語] 不詳 270-271 ガリア北部で皇帝僭称?。アウレリアヌスの反乱者
フェリキッシムス[英語] 不詳 271 ローマ市内で皇帝僭称?。アウレリアヌスの反乱者
セプティミウス[英語] 不詳 271 ダルマティアで皇帝僭称。同上
ウルバヌス[英語] 不詳 271/272 僭称者。同上
フィルムス 不詳 273 アエギュプトゥスで皇帝僭称。同上
マルクス・クラウディウス・タキトゥス マルクス・クラウディウス・タキトゥス 275–276
フロリアヌス マルクス・アンニウス・フロリアヌス 276 マルクス・クラウディウス・タキトゥスの弟。
プロブス マルクス・アウレリウス・プロブス 276–282 フロリアヌスから簒奪。
プロクルス[英語] 不詳 280/281 ボノスス[英語]と共にゲルマニア・インフェリオルで皇帝僭称。プロブスの反乱者
サトゥルニヌス ユリウス・サトゥルニヌス 281 アエギュプトゥスで皇帝僭称。同上
マルクス・アウレリウス・カルス マルクス・アウレリウス・カルス 282–283 プロブスより簒奪。
カリヌス マルクス・アウレリウス・カリヌス 283–285 ヌメリアヌスと共同皇帝。
サビヌス・ユリアヌス[英語] マルクス・アウレリウス・サビヌス・ユリアヌス 284–285 パンノニアで皇帝僭称。カリヌスの反乱者
ドミナートゥス(専制君主制)
ディオクレティアヌス ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス 284–305 カリヌスより簒奪。一般的には軍人皇帝に含まれない
皇帝名 フルネーム 在位 備考

注:

  •   元老院より認められた「正式な皇帝」
  •   皇帝僭称者(ラテン語:usurpatio)
  • 皇帝僭称者の内、実在が疑われている人物は小文字・括弧付で記載している。
  • 上述したように、ディオクレティアヌスは一般に軍人皇帝へ含まないが、連続性を考慮して記載している。

脚注

  1. ^ 主に、国境防衛のために軍団が配置されている皇帝属州の総督。
  2. ^ 共和制期のローマ貴族は、数多くのクリエンテス(子分)を持つパトロヌス(親分)であった。この関係(パトロネジ)によって、数多くの兵士を動員し平民よりも重い兵役義務に応じた。しかしながら、このような私的上下関係が、ローマの国家運営上の問題になり、一元的な上下関係に整理する必要が生じたのが、ローマが共和制から帝政に移行した理由のひとつである。従って、帝政期のローマ貴族は、かつてのような多数のクリエンテスを持つパトロヌスではなくなってしまった。
  3. ^ ただし近年は異説も出ている。ガッリエヌス#文武官の分離と歴史的意義も参照。

出典

世界史の謎 https://www.y-history.net/appendix/wh0103-088.html[1]

軍人皇帝時代の研究 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/150134/1/ybunk00194.pdf

  1. ^ 軍人皇帝”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。

軍人皇帝時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:48 UTC 版)

ローマ皇帝一覧」の記事における「軍人皇帝時代」の解説

詳細は「六皇帝の年」、「3世紀の危機」、および「軍人皇帝」を参照 肖像名称生年誕生在位期間即位背景没年死因 マクシミヌス・トラクス CAESAR GAIVS JVLIVS VERVS MAXIMINVS AVGVSTVS 173年属州トラキア若しくはモエシア235年3月20日238年4月蛮族出身軍人アレクサンデル暗殺後特異な出自でかつ民衆元老院支持もなかったに関わらず軍事力帝位強奪した。これ以降皇帝元老院民衆軽視強まり軍事力による帝位継承慣例化した(軍人皇帝)。 238年4月頃 軍による暗殺 ゴルディアヌス1世 CAESAR MARCVS ANTONIVS GORDIANVS SEMPRONIANVS AFRICANVS AVGVSTVS 159年属州フリュギア238年3月22日238年4月12日 騎士階級出身富裕な元老院議員元老院民衆によってトラクスの対立皇帝推挙され息子ゴルディアヌス2世共同皇帝としアフリカ属州蜂起息子がトラクス軍との戦いで敗死すると自らも宮殿自害した238年4月12日 自害 ゴルディアヌス2世 CAESAR MARCVS ANTONIVS GORDIANVS SEMPRONIANVS ROMANVS AFRICANVS AVGVSTVS 192年 238年3月22日238年4月12日 ゴルディアヌス1世息子老齢の父に代わって前線軍勢率いる。カルタゴ戦いでトラクス軍に敗れ戦死する238年4月12日 トラクス軍との戦いで敗死 プピエヌス CAESAR MARCVS CLODIVS PVPIENVS MAXIMVS AVGVSTVS 178年 238年4月22日238年7月29日 反トラクス派の将軍元老院から新たな対立皇帝として擁立される。トラクス暗殺によって安定化した情勢バルビヌスとの諍いで再び悪化させた。口論最中バルビヌス同時に暗殺され、川に投げ捨てられた。 238年7月29日 近衛隊による暗殺 バルビヌス CAESAR DECIMVS CAELIVS CALVINVS BALBINVS PIVS AVGVSTVS 不明 238年4月22日238年7月29日 元老院議員プピエヌス共同皇帝として政務面を補佐するが、不仲で有名であったゴルディアヌス2世遺児副帝指名する238年7月29日 近衛隊による暗殺 ゴルディアヌス3世 CAESAR MARCVS ANTONIVS GORDIANVS AVGVSTVS 225年1月20日ローマイタリア本土238年4月22日244年2月11日 ゴルディアヌス1世の孫、ゴルディアヌス2世の甥(妹の子)。元老院民衆からの深い同情から人気集めバルビヌスプピエヌス副帝とされ両者暗殺後単独皇帝に。 244年2月11日 ペルシア軍との戦いで敗死もしくはピリップス・アラブスによる暗殺ピリップス・アラブスとピリップス2世 CAESAR MARCVS IVLIVS PHILLIPVS AVGVSTVS with PHILLIPVS II シャハバ属州シリア244年2月頃 – 249年後半 ゴルディアヌス3世近衛隊長ペルシア戦争後帝位継承宣言息子のピリップス2世後継者として共同皇帝指名した249年後半 デキウス軍との戦いで敗死 デキウスとエトルスクス・デキウス CAESAR GAIVS MESSIVS QVINTVS TRAIANVS DECIVS AVGVSTVS with QUINTVS HERENNIVS ETRUSCVS MESSIVS DECIVS 201年ブダリア(属州パンノニア) 249年後半251年6月ピリップス・アラブス側近息子エトルスクスと共に帝位を奪うが、アブリットゥスの戦いゴート軍に敗れて戦死する251年6月 ゴート軍との戦いで敗死 ホスティリアヌス CAESAR CAIVS VALENS HOSTILIANVS MESSIVS QVINTVS AVGVSTVS ローマ 251年6月251年後半 デキウス次男、エトルスクスの弟。父と兄の死後帝位継ぎトレボニアヌス・ガッルス養子となり共治帝となるが同年疫病病死251年後半 病死(ガッルスによる暗殺説もあり) トレボニアヌス・ガッルスウォルシアヌス CAESAR GAIVS VIBIVS TREBONIANVS GALLVS AVGVSTVS with GAIVS VIBIVS VOLVSIANVS 206年イタリア本土251年6月253年8月 デキウス重臣モエシア総督務めデキウス死後の混乱遠征軍掌握して帝位につく。ホスティリアヌス死後息子ウォルシアヌス共同帝に。アエミリアヌスの裏切りに遭い自軍兵士によって暗殺された。 253年8月 軍による暗殺 アエミリアヌス CAESAR MARCVS AEMILIVS AEMILIANVS AVGVSTVS 207年属州アフリカ253年8月253年10月 トレボニアヌス腹心後任モエシア総督任命されるが、裏切ってトレボニアヌスウォルシアヌスから帝位を奪う。だがウァレリアヌス軍が帝位請求して進軍すると、自らも兵士によって暗殺された。 253年10月 軍による暗殺 ウァレリアヌス CAESAR PVBLIVS LICINIVS VALERIANVS AVGVSTVS 200年 253年10月260年 デキウス重臣ノリクム及びラエティア総督務めアエミリアヌス帝位争って勝利したペルシア戦争従軍するエデッサの戦い大敗し捕らえられ上で処刑された。 260年 以降 シャープール1世による処刑される ガッリエヌスとサロニヌス CAESAR PVBLIVS LICINIVS EGNATIVS GALLIENVS AVGVSTVS with PVBLIVS LICINIVS CORNELIVS SALONINVS 不明 253年10月268年9月 ウァレリアヌス息子。父から共同皇帝指名されウァレリアヌス処刑後単独の皇帝として統治するエデッサの戦いによる帝国権威失墜の中で、ガリア帝国パルミラ帝国分離独立というかつてない大乱直面する268年9月 クラウディウス・ゴティクスによる暗殺 クラウディウス・ゴティクス CAESAR MARCVS AVRELIVS CLAVDIVS AVGVSTVS 213年214年5月10日シルミウム属州パンノニア268年9月270年1月 出自不明ガッリエヌス暗殺し帝位を奪う。大乱の中で侵入本格化した蛮族対しゴート族とのナイススの戦い大勝してこれを押し留めた。 270年1月 自然死 クィンティッルス CAESAR MARCVS AVRELIVS CLAVDIVS QVINTILLVS AVGVSTVS 不明シルミウム属州パンノニア270年 クラウディウス・ゴティクスの弟。兄の死後帝位継承するが、アウレリアヌス暗殺される270年 アウレリアヌスによる暗殺 アウレリアヌス CAESAR LVCIVS DOMITIVS AVRELIANVS AVGVSTVS 214年215年9月9日シルミウム属州パンノニア270年275年9月 クラウディウス・ゴティクス重臣複数戦いで蛮族勝利して対外情勢安定化させた。更にガリア帝国パルミラ帝国滅ぼして帝国領回復元老院から「世界の修復者」尊称を受ける。シャープール1世死後のペルシャ侵攻する途中秘書官暗殺される275年9月 秘書官による暗殺 タキトゥス CAESAR MARCVS CLAVDIVS TACITVS AVGVSTVS 200年テルニ 275年9月25日276年6月 元老議員アウレリアヌス急死によって皇帝選出される即位時点老齢であり、ペルシア戦争再開準備する中で病没した。 276年6月 自然死 フロリアヌス CAESAR MARCVS ANNIVS FLORIANVS AVGVSTVS 不明 276年6月276年9月 タキトゥス異父弟。兄の死に伴い帝位継承主張して西方属州支持を得る。しかし東方属州支持得たプロブス苦戦強いられ、見限った軍に暗殺された。 276年9月 軍による暗殺 プロブス CAESAR MARCVS AVRELIVS PROBVS AVGVSTVS 232年シルミウム属州パンノニア276年9月282年後半 帝国軍高官東方属州支持背景フロリアヌス破り皇帝即位する対外戦争功績挙げるが、ペルシャ戦争途中でカルス反乱により暗殺される282年後半 近衛兵による暗殺 カルス CAESAR MARCVS AVRELIVS CARVS AVGVSTVS 230年ナルボ 282年後半283年8月 プロブス近衛隊長戦争中プロブス暗殺指揮権奪ってペルシャ戦争継続した戦い優勢に進んだが、落雷による事故急死した283年8月 事故死 カリヌス CAESAR MARCVS AVRELIVS CARINVS AVGVSTVS 不明 283年8月285年 カルス長男。父の反乱によって弟ヌメリアヌス副帝となり、父が遠征先で戦死する遠征同行していた弟と共に皇帝となった。しかし弟を暗殺され、更にその腹心であったディオクレティアヌス遠征軍掌握するとこれに敗れ戦死する285年 ディオクレティアヌス軍との戦いで敗死 ヌメリアヌス CAESAR MARCVS AVRELIVS NVMERIVS NVMERIANVS AVGVSTVS 不明 283年8月284年 カルス次男本国を守る兄に対して父と共にペルシャ遠征従軍した。父が事故死すると帝位継いだ兄の共同皇帝となり、遠征軍撤退指揮する撤退中、配下の裏切りで暗殺される284年 軍による暗殺

※この「軍人皇帝時代」の解説は、「ローマ皇帝一覧」の解説の一部です。
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