軍人皇帝
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軍人皇帝(ぐんじんこうてい)は、ローマ帝国で3世紀の危機と呼ばれた時期に、主に配下の軍事力を背景に廃立された諸皇帝をいう。
軍人皇帝時代
235年から284年の間、軍人皇帝が乱立した時代を軍人皇帝時代(ぐんじんこうていじだい)と称する。
具体的には、アレクサンデル・セウェルス暗殺(セウェルス朝断絶)後に即位したマクシミヌス・トラクスから、ディオクレティアヌスに討たれたカリヌスまでの諸皇帝を指す。
元老院が容認した皇帝だけでも、前半の33年間(235年-268年)に14人が擁立された。
さらに、各地の実力者がローマ皇帝号を僭称することも多く、結果として皇帝の権威が失墜、また帝位が頻繁に入れ替わるためほとんど内乱と変わらない状態が長期間続き、これによりローマ帝国の国力は弱体化した。
原因
古代ローマにおいては共和政の時代より、国家の最高指導者がすなわち前線に立つ軍司令官であった。共和政の時代においては、2人の執政官がこの役目を担った。執政官が2人であることからひとりは軍司令官として前線に赴いても、もうひとりの執政官が内政を執ることができ、また2人の執政官が同時に軍司令官として前線に立たねばならない場合にも、代わって内政を担当するのは誰であるかの序列も決まっていた。1年間という執政官の短い任期も、国土の狭い時代には問題無く機能した。
しかしながら、古代ローマが地中海世界全域を支配する巨大な領域国家となって以降は、1年の任期の執政官による統治と軍事指揮というシステムでは機能しなくなった。
帝政に移行後も、国家の最高指導者と前線に立つ軍司令官が同一人物であるというシステムはそのまま継承された。初代皇帝のアウグストゥスをはじめ、多くの皇帝は内乱を勝ち抜いた人物であり、軍事と政治の両方の手腕を持っていた事から問題視はされなかった。アウグストゥス自身は軍才に乏しかったが、腹心アグリッパらに任せることで補った。またクラウディウスも病弱で軍務経験は皆無であったが、実際に軍を指揮する将軍たちの任命について人事の才能を発揮し、ブリタンニア遠征を成し遂げ、皇帝自身に軍才は無くてもシステムとしては問題無く機能した。
しかしながらローマ帝国がたびたび外敵の侵攻にさらされる時代になると、国家の最高指導者と前線に立つ軍司令官が同一人物であるというシステムには弊害が見られるようになった。しかし、終身の存在である皇帝は、おいそれと更迭ができる存在ではなく、軍司令官として無能さを露呈した皇帝を排除するには、叛乱・クーデター・暗殺という非合法な強硬手段に出る以外に選択肢が無くなってしまったのである。また軍司令官である以上、戦死・敵の捕虜になるという事態は、当然のこととして起こり得るものであり、その度に皇帝を選び直さなくてはならない事態が生じた。また選出手段が決まっていた(市民集会の選挙)執政官と違い、皇帝の場合は選出手段が定められておらず、これも混乱の原因となった。事実、軍人皇帝時代以前にも、ネロやコンモドゥスの死によってそれまでの皇帝の皇統が断絶したのを切っ掛けに、地方の属州総督[1]が帝位を争って内乱を起こした例が2回ある(ローマ内戦 (68年-70年) (四皇帝の年) と、ローマ内戦 (192年-197年) (五皇帝の年))。
先立つ2世紀後半の気候寒冷化による食糧生産性の低下や、それに伴う不満の鬱積とローマ末端組織の支配力喪失の進行へ対処する為にカラカラ帝が発したアントニヌス勅令により、中央の財政が悪化する。また、外敵の侵入に対応するため属州兵を現地徴募に切り替えた結果、属州への締め付けが効かなくなるという悪循環が止まらない時代であった。
特徴
英語ではBarracks Emperror(兵舎の皇帝)、ドイツ語でもSoldatenkaiser(兵隊皇帝)と呼ばれており、この名前の通り、彼らは以前の皇帝とは異なり、旧来の貴族層による擁立ではなく主にローマ軍団の軍事力を背景としたクーデターによることが挙げられる。軍人皇帝の身分は比較的低い出自が多く、たとえば最初の軍人皇帝であるマクシミヌス・トラクスはトラキア出身の一兵士からの叩き上げであり、マクシミヌス以外にも軍人皇帝たちの多くが名乗るほどの家名や祖先は持たず、彼らの擁立は軍隊の経歴により、その影響力も主として兵士であった。また元老院や貴族層は力を失って国政を動かす影響力に乏しくなり、軍隊の推挙を受けた指導者を追認するだけの存在となった。よって、属州軍により推挙され元老院の認定のないまま皇帝を僭称する軍司令官(僭称皇帝)が乱立した。前線で戦う兵士たちにとって軍司令官として有能な者を皇帝に選ぶのは生活の上でも身の安全の上でも死活問題であり、また元老院を形成する貴族層はかつての経済力や動員力・人脈を失い[2]承認する以外に無かったのである。特に軍人皇帝のひとりであるガッリエヌスによって、軍務の経験者が元老院から分離された事が、この傾向に拍車をかけた[3]。
しかし、軍人皇帝たちの多くはローマ帝国国境の軍司令官であったため、帝位の交替のたびに国境防衛に空白を生み、防衛能力の弱体化を招いた。またガリア地域における民心の離反と支配力喪失によりゲルマン人の侵入を容易にし、結果としてアウレリアヌス帝が再びローマに城壁を築くほどであった。皇帝の要件はローマに対する忠誠心を失った知識層や民衆の支持ではなく、相対的に高まった軍属・兵士の支持と、他の属州軍団に立ち勝る軍事力であり、これがなくなると剣によって得た権力を剣によって失うことになった。また、それぞれの属州において兵士がそれぞれ皇帝候補や僭称皇帝を擁立し、それら皇帝候補者の争いによる軍閥内の争いも生じた。
僭称皇帝の中には、ローマに進軍して自らが正規の皇帝になることを試みた者もいた。
ガリアを基盤に自立して260年に皇帝号を僭称したポストゥムスは、その地において事実上の独立国家を造り上げた。これが「ガリア帝国」と通称されている。また、東方のパルミラにおいては267年に「女王」と称されたゼノビアが自らの息子ウァバッラトゥスを擁立して皇帝号を僭称させ、ここでも「パルミラ帝国」と通称される事実上の独立国家が成立した。これにより、ローマ世界は本体の帝国とガリア帝国とパルミラ王国に三分されたことになる。
284年、プラエフェクトゥス・プラエトリオであったディオクレスが帝位に就くと、ディオクレティアヌスと名を変え、帝国のシステムを改革する。彼はまた帝国を4分割するというテトラルキアの制度を作り上げた。
後代への影響
軍人皇帝時代は皇帝の背景には軍事力が欠かせない要素ではあったが、その後の皇帝には軍事色が薄くなっていく。
ドミナートゥス(専制君主政)へと帝政を転換させたディオクレティアヌスやコンスタンティヌス1世などは皇帝権力を強化し、自らも兵を率いたが、その後は軍務は例えばスティリコのようにマギステル・ミリトゥム(軍司令官)が行い、彼らが帝国の運営の担い手となってゆく。
そして西ローマ帝国では、皇帝はホノリウス帝のように権威色が帯びるものの実際の政治的主導権は一層薄い存在となっていき、最後には傭兵隊長のオドアケルによって西ローマ皇帝は廃されてしまうことになった。
一方、東ローマ帝国ではコンスタンティヌス1世以来の強い皇帝権力が維持・強化され、ユスティヌス1世のように軍出身の皇帝が即位したり、7世紀のヘラクレイオスや10世紀のバシレイオス2世などのように親征を行う皇帝もいた。
軍人皇帝一覧
通称 | フルネーム | 在位 | 備考 |
六皇帝 | |||
マクシミヌス・トラクス | ガイウス・ユリウス・ウェルス・マクシミヌス | 235–238 | アレクサンデル・セウェルスより簒奪。六皇帝の1人 |
マグヌス[英語] | ガイウス・ペトレイウス・マグヌス | 235 | ゲルマニアで皇帝僭称。マクシミヌスの反乱者 |
クァルティヌス[英語] | ティティウス・クァルティヌス | 235 | オスロエネで皇帝僭称。マクシミヌスの反乱者 |
ゴルディアヌス1世 | マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌス・アフリカヌス | 238 | アフリカ属州で即位。息子ゴルディアヌス2世は共同皇帝。六皇帝の1人 |
ゴルディアヌス2世 | マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌス・アフリカヌス | 238 | アフリカ属州で即位。父ゴルディアヌス1世の共同皇帝。六皇帝の1人 |
プピエヌス・マクシムス | マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス | 238 | バルビヌスと共同皇帝。六皇帝の1人 |
バルビヌス | デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス | 238 | プピエヌス・マクシムスと共同皇帝。六皇帝の1人 |
ゴルディアヌス3世 | マルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・ピウス | 238–244 | ゴルディアヌス1世の娘で、ゴルディアヌス2世の姉妹であるアントニア・ゴルディアナの息子。六皇帝の1人 |
サビニアヌス | マルクス・アシニウス・サビニアヌス | 240 | アフリカで皇帝僭称。ゴルディアヌス3世の反乱者 |
六皇帝以降 | |||
ピリップス・アラブス | マルクス・ユリウス・ピリップス | 244–249 | 息子マルクス・ユリウス・セウェルス・ピリップスは共同皇帝 |
パカティアヌス[英語] | ティベリウス・クラウディウス・マリヌス・パカティアヌス | 248–249 | モエシアで皇帝僭称。ピリップスの反乱者 |
ヨタピアヌス[英語] | マルクス・F・R・ヨタピアヌス | 248–249 | シリア属州で皇帝僭称。同上 |
シルバナックス[英語] | マルクス・シルバナックス | 249?/253? | ゲルマニア・スペリオルで皇帝僭称?。同上 |
スポンシアヌス[英語] | 不詳 | 不詳 | トランシルバニア地方で皇帝僭称?。同上 |
デキウス | ガイウス・メッシウス・クィントゥス・トライアヌス・デキウス | 249–251 | ピリップスより簒奪。息子ヘレンニウス・エトルスクスは共同皇帝 |
リキニアヌス[英語] | ユリウス・ウァレンス・リキニアヌス | 250 | ローマ市で皇帝僭称。デキウスの反乱者 |
プリスクス[英語] | (ルキウスまたはユリウス・ティトゥス)・プリスクス | 250 | マケドニア属州で皇帝僭称。同上 |
トレボニアヌス・ガッルス | ガイウス・ウィビウス・トレボニアヌス・ガッルス | 251–253 | ホスティリアヌス(251年)および息子ガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス(251年-253年)と共同皇帝 |
マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス | マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス | 253 | トレボニアヌス・ガッルスより簒奪。 |
ウァレリアヌス | プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌス | 253–260 | アエミリウスより簒奪。息子ガッリエヌスと共同皇帝 |
ウラニウス・アントニウス[英語] | ルキウス・ユリウス・アウレリウス・スルプキウス・セウェルス・ウラニウス・アントニウス | 253–254 | シリアで皇帝僭称。ウァレリアヌスの反乱者 |
ガッリエヌス | プブリウス・リキニウス・エグナティウス・ガッリエヌス | 253–268 | 父ウァレリアヌスの被捕虜後に単独皇帝に即位。ガリア帝国やパルミラ帝国など各地で分離勢力による反乱が頻発する中、軍人皇帝時代最長となる15年もの治世を維持した。 |
プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス | プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス | 260 | ガッリエヌスの息子で共同皇帝。ガリアの叛乱者ポストゥムスによって殺害される。 |
インゲヌス[英語] | 不詳 | 260 | シルミウムで皇帝僭称。ガッリエヌスの反乱者 |
レガリアヌス[英語] | プブリウス・C・レガリアヌス | 260 | パンノニアで皇帝僭称。同上 |
マクリアヌス・ミノル | ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・マクリアヌス | 260–261 | 同名の父マクリアヌス・マヨルの計らいにより弟クィエトゥスとともに皇帝を僭称する。同上 |
クィエトゥス | ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス | 260–261 | マクリアヌス・マヨルの息子で兄弟マクリアヌス・ミノルの僭称共同皇帝。同上 |
バッリスタ | 不詳(カッリストゥス?) | 260–264 | マクリアヌス親子らに加勢して皇帝を僭称する。同上 |
テッサロニクス[英語] | ウァレンス・テッサロニクス | 261 | アカエア(ギリシア)で皇帝僭称。同上 |
ピソ[英語] | ルキウス・カルプルニウス・ピソ・フルギ | 261 | アカエアで皇帝僭称。同上 |
ムッシウス・アエミリアヌス[英語] | ルキウス・ムッシウス・アエミリアヌス | 260-261 | アエギュプトゥスで皇帝僭称。同上 |
ケルスス[英語] | ティトゥス・コルネリウス・ケルスス | 不詳 | アフリカ属州で皇帝僭称。同上 |
トレベッリアヌス[英語] | 不詳 | 不詳 | 小アジアで皇帝僭称。同上 |
アウレオルス[英語] | 不詳 | 268 | パンノニアで皇帝僭称。同上 |
クラウディウス・ゴティクス | マルクス・アウレリアヌス・クラウディウス | 268–270 | ガッリエヌスより簒奪。 |
サトゥルニヌス[英語] | 不詳 | 268 | クラウディウスの反乱者 |
ケンソリヌス[英語] | アッピウス・クラウディウス・ケンソリヌス | 269–270 | イタリア本土で皇帝僭称?。クラウディウスの反乱者 |
クィンティッルス | マルクス・アウレリアヌス・クラウディウス・クィンティッルス | 270 | クラウディウスの弟。 |
ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス | ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス | 270–275 | クィンティッルスより簒奪。ガリア帝国とパルミラ帝国を滅ぼし、ローマ帝国の再統一を達成。 |
ドミティアヌス2世[英語] | 不詳 | 270-271 | ガリア北部で皇帝僭称?。アウレリアヌスの反乱者 |
フェリキッシムス[英語] | 不詳 | 271 | ローマ市内で皇帝僭称?。アウレリアヌスの反乱者 |
セプティミウス[英語] | 不詳 | 271 | ダルマティアで皇帝僭称。同上 |
ウルバヌス[英語] | 不詳 | 271/272 | 僭称者。同上 |
フィルムス | 不詳 | 273 | アエギュプトゥスで皇帝僭称。同上 |
マルクス・クラウディウス・タキトゥス | マルクス・クラウディウス・タキトゥス | 275–276 | |
フロリアヌス | マルクス・アンニウス・フロリアヌス | 276 | マルクス・クラウディウス・タキトゥスの弟。 |
プロブス | マルクス・アウレリウス・プロブス | 276–282 | フロリアヌスから簒奪。 |
プロクルス[英語] | 不詳 | 280/281 | ボノスス[英語]と共にゲルマニア・インフェリオルで皇帝僭称。プロブスの反乱者 |
サトゥルニヌス | ユリウス・サトゥルニヌス | 281 | アエギュプトゥスで皇帝僭称。同上 |
マルクス・アウレリウス・カルス | マルクス・アウレリウス・カルス | 282–283 | プロブスより簒奪。 |
カリヌス | マルクス・アウレリウス・カリヌス | 283–285 | 弟ヌメリアヌスと共同皇帝。 |
サビヌス・ユリアヌス[英語] | マルクス・アウレリウス・サビヌス・ユリアヌス | 284–285 | パンノニアで皇帝僭称。カリヌスの反乱者 |
ドミナートゥス(専制君主制) | |||
ディオクレティアヌス | ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス | 284–305 | カリヌスより簒奪。一般的には軍人皇帝に含まれない |
皇帝名 | フルネーム | 在位 | 備考 |
注:
- 元老院より認められた「正式な皇帝」
- 皇帝僭称者(ラテン語:usurpatio)
- 皇帝僭称者の内、実在が疑われている人物は小文字・括弧付で記載している。
- 上述したように、ディオクレティアヌスは一般に軍人皇帝へ含まないが、連続性を考慮して記載している。
脚注
- ^ 主に、国境防衛のために軍団が配置されている皇帝属州の総督。
- ^ 共和制期のローマ貴族は、数多くのクリエンテス(子分)を持つパトロヌス(親分)であった。この関係(パトロネジ)によって、数多くの兵士を動員し平民よりも重い兵役義務に応じた。しかしながら、このような私的上下関係が、ローマの国家運営上の問題になり、一元的な上下関係に整理する必要が生じたのが、ローマが共和制から帝政に移行した理由のひとつである。従って、帝政期のローマ貴族は、かつてのような多数のクリエンテスを持つパトロヌスではなくなってしまった。
- ^ ただし近年は異説も出ている。ガッリエヌス#文武官の分離と歴史的意義も参照。
出典
世界史の謎 https://www.y-history.net/appendix/wh0103-088.html[1]
軍人皇帝時代の研究 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/150134/1/ybunk00194.pdf
- ^ “軍人皇帝”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
軍人皇帝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:48 UTC 版)
詳細は「六皇帝の年」、「3世紀の危機」、および「軍人皇帝」を参照 肖像名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因 マクシミヌス・トラクス CAESAR GAIVS JVLIVS VERVS MAXIMINVS AVGVSTVS 173年(属州トラキア、若しくはモエシア) 235年3月20日 – 238年4月頃 蛮族出身の軍人。アレクサンデル暗殺後、特異な出自でかつ民衆や元老院の支持もなかったにも関わらず軍事力で帝位を強奪した。これ以降、皇帝の元老院と民衆の軽視が強まり、軍事力による帝位継承が慣例化した(軍人皇帝)。 238年4月頃 軍による暗殺 ゴルディアヌス1世 CAESAR MARCVS ANTONIVS GORDIANVS SEMPRONIANVS AFRICANVS AVGVSTVS 159年(属州フリュギア) 238年3月22日 – 238年4月12日 騎士階級出身。富裕な元老院議員で元老院と民衆によってトラクスの対立皇帝へ推挙され、息子のゴルディアヌス2世を共同皇帝としアフリカ属州で蜂起。息子がトラクス軍との戦いで敗死すると自らも宮殿で自害した。 238年4月12日 自害 ゴルディアヌス2世 CAESAR MARCVS ANTONIVS GORDIANVS SEMPRONIANVS ROMANVS AFRICANVS AVGVSTVS 192年 238年3月22日 – 238年4月12日 ゴルディアヌス1世の息子。老齢の父に代わって前線で軍勢を率いる。カルタゴの戦いでトラクス軍に敗れ、戦死する。 238年4月12日 トラクス軍との戦いで敗死 プピエヌス CAESAR MARCVS CLODIVS PVPIENVS MAXIMVS AVGVSTVS 178年 238年4月22日 – 238年7月29日 反トラクス派の将軍。元老院から新たな対立皇帝として擁立される。トラクス暗殺によって安定化した情勢をバルビヌスとの諍いで再び悪化させた。口論の最中にバルビヌスと同時に暗殺され、川に投げ捨てられた。 238年7月29日 近衛隊による暗殺 バルビヌス CAESAR DECIMVS CAELIVS CALVINVS BALBINVS PIVS AVGVSTVS 不明 238年4月22日 – 238年7月29日 元老院議員。プピエヌスの共同皇帝として政務面を補佐するが、不仲で有名であった。ゴルディアヌス2世の遺児を副帝に指名する。 238年7月29日 近衛隊による暗殺 ゴルディアヌス3世 CAESAR MARCVS ANTONIVS GORDIANVS AVGVSTVS 225年1月20日ローマ(イタリア本土) 238年4月22日 – 244年2月11日 ゴルディアヌス1世の孫、ゴルディアヌス2世の甥(妹の子)。元老院と民衆からの深い同情から人気を集め、バルビヌスとプピエヌスの副帝とされ両者の暗殺後に単独の皇帝に。 244年2月11日 ペルシア軍との戦いで敗死(もしくはピリップス・アラブスによる暗殺) ピリップス・アラブスとピリップス2世 CAESAR MARCVS IVLIVS PHILLIPVS AVGVSTVS with PHILLIPVS II シャハバ(属州シリア) 244年2月頃 – 249年後半 ゴルディアヌス3世の近衛隊長。ペルシア戦争後に帝位継承を宣言、息子のピリップス2世を後継者として共同皇帝に指名した。 249年後半 デキウス軍との戦いで敗死 デキウスとエトルスクス・デキウス CAESAR GAIVS MESSIVS QVINTVS TRAIANVS DECIVS AVGVSTVS with QUINTVS HERENNIVS ETRUSCVS MESSIVS DECIVS 201年ブダリア(属州下パンノニア) 249年後半 – 251年6月頃 ピリップス・アラブスの側近。息子エトルスクスと共に帝位を奪うが、アブリットゥスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。 251年6月 ゴート軍との戦いで敗死 ホスティリアヌス CAESAR CAIVS VALENS HOSTILIANVS MESSIVS QVINTVS AVGVSTVS ローマ 251年6月 – 251年後半 デキウスの次男、エトルスクスの弟。父と兄の死後に帝位を継ぎ、トレボニアヌス・ガッルスの養子となり共治帝となるが同年に疫病で病死。 251年後半 病死(ガッルスによる暗殺説もあり) トレボニアヌス・ガッルスとウォルシアヌス CAESAR GAIVS VIBIVS TREBONIANVS GALLVS AVGVSTVS with GAIVS VIBIVS VOLVSIANVS 206年(イタリア本土) 251年6月 – 253年8月 デキウスの重臣。モエシア総督を務め、デキウス死後の混乱で遠征軍を掌握して帝位につく。ホスティリアヌスの死後息子のウォルシアヌスを共同帝に。アエミリアヌスの裏切りに遭い、自軍の兵士によって暗殺された。 253年8月 軍による暗殺 アエミリアヌス CAESAR MARCVS AEMILIVS AEMILIANVS AVGVSTVS 207年(属州アフリカ) 253年8月 – 253年10月 トレボニアヌスの腹心。後任のモエシア総督に任命されるが、裏切ってトレボニアヌスとウォルシアヌスから帝位を奪う。だがウァレリアヌス軍が帝位を請求して進軍すると、自らも兵士によって暗殺された。 253年10月 軍による暗殺 ウァレリアヌス CAESAR PVBLIVS LICINIVS VALERIANVS AVGVSTVS 200年 253年10月 – 260年 デキウスの重臣。ノリクム及びラエティア総督を務め、アエミリアヌスと帝位を争って勝利した。ペルシア戦争に従軍するもエデッサの戦いで大敗し、捕らえられた上で処刑された。 260年 以降 シャープール1世による処刑される ガッリエヌスとサロニヌス CAESAR PVBLIVS LICINIVS EGNATIVS GALLIENVS AVGVSTVS with PVBLIVS LICINIVS CORNELIVS SALONINVS 不明 253年10月 – 268年9月 ウァレリアヌスの息子。父から共同皇帝に指名され、ウァレリアヌス処刑後は単独の皇帝として統治する。エデッサの戦いによる帝国の権威失墜の中で、ガリア帝国・パルミラ帝国の分離独立というかつてない大乱に直面する。 268年9月 クラウディウス・ゴティクスによる暗殺 クラウディウス・ゴティクス CAESAR MARCVS AVRELIVS CLAVDIVS AVGVSTVS 213年(214年)5月10日シルミウム(属州パンノニア) 268年9月 – 270年1月 出自不明。ガッリエヌスを暗殺して帝位を奪う。大乱の中で侵入が本格化した蛮族に対し、ゴート族とのナイススの戦いに大勝してこれを押し留めた。 270年1月 自然死 クィンティッルス CAESAR MARCVS AVRELIVS CLAVDIVS QVINTILLVS AVGVSTVS 不明シルミウム(属州パンノニア) 270年 クラウディウス・ゴティクスの弟。兄の死後に帝位を継承するが、アウレリアヌスに暗殺される。 270年 アウレリアヌスによる暗殺 アウレリアヌス CAESAR LVCIVS DOMITIVS AVRELIANVS AVGVSTVS 214年(215年)9月9日シルミウム(属州パンノニア) 270年 – 275年9月 クラウディウス・ゴティクスの重臣。複数の戦いで蛮族に勝利して対外情勢を安定化させた。更にガリア帝国・パルミラ帝国を滅ぼして帝国領を回復、元老院から「世界の修復者」の尊称を受ける。シャープール1世死後のペルシャに侵攻する途中、秘書官に暗殺される。 275年9月 秘書官による暗殺 タキトゥス CAESAR MARCVS CLAVDIVS TACITVS AVGVSTVS 200年テルニ 275年9月25日 – 276年6月 元老議員。アウレリアヌスの急死によって皇帝に選出される。即位時点で老齢であり、ペルシア戦争の再開を準備する中で病没した。 276年6月 自然死 フロリアヌス CAESAR MARCVS ANNIVS FLORIANVS AVGVSTVS 不明 276年6月 – 276年9月 タキトゥスの異父弟。兄の死に伴い帝位継承を主張して西方属州の支持を得る。しかし東方属州の支持を得たプロブスに苦戦を強いられ、見限った軍に暗殺された。 276年9月 軍による暗殺 プロブス CAESAR MARCVS AVRELIVS PROBVS AVGVSTVS 232年シルミウム(属州パンノニア) 276年9月 – 282年後半 帝国軍の高官。東方属州の支持を背景にフロリアヌスを破り、皇帝に即位する。対外戦争で功績を挙げるが、ペルシャ戦争の途中でカルスの反乱により暗殺される。 282年後半 近衛兵による暗殺 カルス CAESAR MARCVS AVRELIVS CARVS AVGVSTVS 230年ナルボ 282年後半 – 283年8月 プロブスの近衛隊長。戦争中にプロブスを暗殺、指揮権を奪ってペルシャ戦争を継続した。戦いは優勢に進んだが、落雷による事故で急死した。 283年8月 事故死 カリヌス CAESAR MARCVS AVRELIVS CARINVS AVGVSTVS 不明 283年8月 – 285年 カルスの長男。父の反乱によって弟ヌメリアヌスと副帝となり、父が遠征先で戦死すると遠征に同行していた弟と共に皇帝となった。しかし弟を暗殺され、更にその腹心であったディオクレティアヌスが遠征軍を掌握するとこれに敗れ、戦死する。 285年 ディオクレティアヌス軍との戦いで敗死 ヌメリアヌス CAESAR MARCVS AVRELIVS NVMERIVS NVMERIANVS AVGVSTVS 不明 283年8月 – 284年 カルスの次男。本国を守る兄に対して、父と共にペルシャ遠征に従軍した。父が事故死すると帝位を継いだ兄の共同皇帝となり、遠征軍の撤退を指揮する。撤退中、配下の裏切りで暗殺される。 284年 軍による暗殺
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