単独の皇帝としてとは? わかりやすく解説

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単独の皇帝として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:14 UTC 版)

コンスタンティヌス1世」の記事における「単独の皇帝として」の解説

324年という年コンスタンティヌス1世にとって、またローマ帝国にとって大きな転換点となる年である。リキニウスの死によって、コンスタンティヌス1世ディオクレティアヌスによる帝権分割以来となる単独ローマ皇帝となった。彼は未だ7歳であった息子コンスタンティウス2世副帝据え新たな体制構築乗り出した帝国政治・経済文化重心東方移っていたことから、324年中にはコンスタンティヌス1世ボスポラス海峡面する要衝都市ビュザンティオン着目し、自らの名前を与えてコンスタンティノープルコンスタンティノポリスコンスタンティヌスの町)と改称することを決めた。そして330年に(工事はまだ途中であったが)落成式執り行われた。また、ディオクレティアヌス以来続けられていた行改革引き継ぎ中央政府組織整備した元首制期の皇帝個人的な友人同僚たち助言集団持ったが、これは次第公的なものとなり、3世紀の危機経てディオクレティアヌス時代には枢密院(consistorium)と呼ばれるようになったコンスタンティヌス1世はこの枢密院をより確固たる組織仕立て上げまた、軍制改革行い、この結果行政機関文民部門軍事部門分離進行した財政面では純度安定したソリドゥス金貨発行したことが特筆される従来からソリドゥス呼ばれる金貨発行されていたが、コンスタンティヌス1世新たな基準でこれを発行した。この新貨幣ノミスマ呼ばれ、後に帝国標準貨幣として流通することになる。 宗教面ではキリスト教教義上の分裂収拾試みたコンスタンティヌス1世はかつての迫害によってキリスト教の教会被った損失回復行い教会庇護者として振る舞っていたが、帝国内のキリスト教には教義差異生じており、復活祭日付バラバラであった。そして彼が皇帝となった時にはアレクサンドリア司教アレクサンドロス司祭アリウスアレイオス)との間の論争端を発して東方属州全域司教たちを巻き込んだ分裂生じていた。コンスタンティヌス1世はこれに介入し教義細部拘泥せず和解するよう促した。しかし、このアリウス派と反アリウス派対立容易に解決する段階にないことが明らかとなると325年5月20日ニカイアニケア)に数百名の司教招集しニカイア公会議第1回全教会議)を開催したコンスタンティヌス1世自らも議論加わり妥協的な結論を出すことが探られたが、結局アリウス派排除決定されると共に、他の各司教に共通の信条ニカイア信条)を受け入れるよう圧力加えられ、それが結論とされた。同時にローマアレクサンドリアアンティオキア教会首位性の確認や、群小異端禁止などが行われた。しかしその後コンスタンティヌス1世アリウス派との妥協模索しアリウス教会への復帰認めた

※この「単独の皇帝として」の解説は、「コンスタンティヌス1世」の解説の一部です。
「単独の皇帝として」を含む「コンスタンティヌス1世」の記事については、「コンスタンティヌス1世」の概要を参照ください。

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