リキニウスの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:14 UTC 版)
「コンスタンティヌス1世」の記事における「リキニウスの死」の解説
比較的長く続いた平和の後、コンスタンティヌス1世とリキニウスの関係は再び悪化した。その要因にはコンスタンティヌス1世が息子のクリスプスと小コンスタンティヌスをリキニウスと相談することなく(ジョーンズによれば321年に)執政官職(コンスル)に就けたこと、その後もリキニウスの同意なしにコンスルの任命をし続けたこと、リキニウスが自領内でコンスタンティヌス1世が任命したコンスルを無視したこと、323年にコンスタンティヌス1世が第2モエシア属州に侵入したゴート人を討伐するためにリキニウスの領土に侵入したこと、キリスト教徒の庇護者として振る舞うコンスタンティヌス1世の姿を見たリキニウスが、自分の領内のキリスト教徒をスパイだと疑い始めたことなどが挙げられている。リキニウスはコンスタンティヌス1世よりもはっきりと一神教的な見解を持っていたようにも見受けられるが、古くからの神々を拒否することは無く、それらを偉大なユピテル神の別側面であるとみなしたと考えられる。一方でコンスタンティヌス1世はキリスト教徒への庇護の傾斜を強め、320年にはコンスタンティヌス1世のコインに残されていた最後の異教の神、不敗太陽神(ソル)の図像が姿を消した。コンスタンティヌス1世がキリスト教への傾倒を強めるほどに、リキニウスはキリスト教徒たちの礼拝がコンスタンティヌス1世のためのものであるという認識を強め、教会の活動への統制を強めていった。324年には両者は再び武力衝突に至った。彼らは自分が基盤を置く宗教組織へ協力を求めたとされている。コンスタンティヌス1世はキリスト教の司教たちを呼び寄せ、自軍の兵士たちに至高の神への祈りを強制し、リキニウスは祭司、占い師、魔術師をエジプトから呼び寄せ神々に犠牲を捧げたという。 コンスタンティヌス1世とリキニウスはともに過去の内戦で動員されたよりもはるかに大きな兵力を擁していた。戦いはコンスタンティヌス1世の先制攻撃で始まり、彼は324年7月3日にアドリアノープル近郊に駐留していたリキニウス軍を攻撃した。コンスタンティヌス1世自身が腿に負傷を追う激戦の末に彼は勝利を収め、リキニウスはビュザンティオンに退却した(アドリアノープル(ハドリアノポリス)の戦い(英語版))。 リキニウスはビュザンティオンで諸局長官(英語版)(Magister officiorum)のセクストゥス・マルキウス・マルティニアヌス(英語版)を共同皇帝に擁立した。コンスタンティヌス1世はビュザンティオンを包囲したが、リキニウスは海上優位を活用して都市への補給を続けこれに耐えた。しかしコンスタンティヌス1世は同時に息子のクリスプスが指揮する艦隊に攻撃を命じており、リキニウスの海軍司令官アバントゥスの失策も手伝ってクリスプスが大勝を収め(ヘレスポントスの海戦)た。これによってビュザンティオンの維持を諦めたリキニウスはボスポラス海峡をわたって小アジアのクリュソポリス(現:トルコ領ユスキュダル、イスタンブルの対岸)へと後退した。324年9月18日、クリュソポリスで最後の戦いが行われ、ここでもコンスタンティヌス1世が勝利を収めた。敗北したリキニウスは更にニコメディアに逃れたが、そこで包囲され妻コンスタンティアを兄であるコンスタンティヌス1世の下へ送り助命を嘆願させた。コンスタンティヌス1世はリキニウスとマルティニアヌスが命を保つことを認め降伏させた後テッサロニキに送ったが、しばらく後に処刑した。後世の史料はリキニウスが蛮族を集め再起を図ったためにコンスタンティヌス1世が彼を処刑したのだとするが、実際のところは確たる理由はなくコンスタンティヌス1世の警戒心によるものであろう。少なくとも当時の人々にとってこの処刑が名誉ある行動ではなかったことは、コンスタンティヌス1世を称揚する教会史家エウセビオスがこの処刑を曖昧に書いていることなどから推測できる。
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