後世の史料とは? わかりやすく解説

後世の史料

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:48 UTC 版)

徳一」の記事における「後世の史料」の解説

東大寺・円超『華厳宗章疏因明録』(914年)には「東大寺徳一」とあり、興福寺・永超『東域伝灯目録』(1094年)には「東大寺徳一」「東大寺得一」、興福寺蔵俊注進法相宗章疏』(1176年)にも「奥州徳一」「東大寺徳一」とあることから、平安時代には徳一東大寺出身とする見方あったようである。 一方同じく平安期『今昔物語集』17陸奥国女人地蔵ノ助ケニ依リテ活ルヲ得ル語第二十九に「今ハ昔、陸奥国恵日寺ト云フ寺有リ。此レハ興福寺ノ前ノ入唐ノ僧、得一菩薩ト云フ人ノ建タル寺也」とあり、興福寺出身入唐したという説が見える。13世紀になると『私聚百因縁集』では「左大臣藤原ノ卿恵美第四男」が空海に従って東国修行したとあり、『南都高僧伝』(13世紀頃)では「恵美大臣息」、『尊卑分脈』14世紀頃)では興福寺出身とされ、入唐経験のある藤原仲麻呂の六男・刷雄が同一視されている。徳一藤原刷雄とを同一視するかどうかについては、研究者のあいだで意見分かれている。 師弟関係としては、『私聚百因縁集』が異説として興福寺修因修円か)の弟子とし、徳一神野山で修行した伝える。『元亨釈書』でも修円とする。また弟子としては、やはり『私聚百因縁集』が今与の名前をあげている。 徳一開創あるいは徳一活動したことを伝え寺院数多くある。陸奥国会津慧日寺勝常寺常陸国筑波山中禅寺大御堂)、西光院など陸奥南部から常陸にかけて多く寺院建立したとされる。現在、慧日寺跡福島県耶麻郡磐梯町)には徳一の墓と伝えられる層塔残されている。勝常寺には平安初期木造薬師如来日光菩薩・月光菩薩像が伝えられており、徳一との関係も指摘されている。 その他、田村晃祐編『徳一論叢』には後世様々な史料縁起収集されている。

※この「後世の史料」の解説は、「徳一」の解説の一部です。
「後世の史料」を含む「徳一」の記事については、「徳一」の概要を参照ください。

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