後世の史家による批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 10:00 UTC 版)
後世史家の『宋史』への批判は、単に体裁の不備にのみ寄せられたのではなく、イデオロギー的側面もあったことは念頭に置く必要がある。すなわち宋代以降、 朱子学的正統論が喧しくなるが、それは『遼史』・『金史』・『宋史』編纂方針にも向けられた。正統論を唱える者は、『宋史』のみが作られるべきであって、遼や金については外国志のレヴェルで十分という意見であり、三史それぞれ別に作ることに反対を唱えた。だが、前述のように元の宮廷内には遼や金の遺臣もおり、そのような批判が受け入れられることはなかった。また、元に降伏した恭帝を最後の皇帝として、南方に逃れた人々によって擁立された端宗・衛王(帝昺)を正式な皇帝と認めず本紀を立てなかったことも、朱子学者たちの激しい反発を呼んだ。 実際に元の支配が終わり、漢民族王朝である明代に入ると、柯維騏は『宋史新編』を著して、遼・金を「外国伝」に編入し、恭帝に従って元に降った高官達を「叛臣伝」に加えている。 また、『史記』以来儒学者のために立てられていた「儒林伝」とは別に朱子学者のために「道学伝」が立てられたり、北宋末期の新法・旧法の争いでは、王安石を除いた新法党政権の要人の多くが「姦臣伝」に入れられ、また金と講和した南宋の宰相秦檜も「姦臣伝」に加えられているのも、朱子学的イデオロギー者が強く反映された結果と言え、清代以後に彼らの業績を客観的に見る動きが登場すると、『宋史』の記述が旧法党や対金強硬派に偏っているとみなされるようになった。
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