政策と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/18 03:39 UTC 版)
エクルズが大恐慌期にルーズベルト大統領に進言した内容は、ジョン・メイナード・ケインズの考え方に近い。しかしエクルズの主張はケインズの代表作『雇用・利子および貨幣の一般理論』が出される前であり、エクルズ本人はケインズの本を読んだことはないと発言している。エクルズは自らの経験から、ケインズと同じ考えに到ったといわれている。 エクルズは、19世紀の経済学はもはや役に立たず、「抑制のない個人主義と、それに伴う自由競争から成り立つ正統派の資本主義制は、われわれの目的を実現するものではなくなる」と発言した。したがって、「新たな経済哲学、新たな経営の視点そして社会システムの根本的な変化」が必要だと考えた。 エクルズの経済政策は、デフレ期には財政赤字を拡大させ、インフレ期に均衡財政を目指すというもので、これを「弾力的予算の原則」と呼んだ。そして、戦争時に人命を守るため無制限に政府債務が使われるのと同じように、恐慌時にも失意と絶望から人命を守るために無制限に財政出動をおこなうべきだと考えた。 一方金融政策については、「糸を押すことはできない」(en:Pushing on a string)という例えを引用している。つまり、インフレ期に過度の膨張を抑えるために金融政策を実施するのは非常に効果的だが、不況時に低金利政策などの金融政策で景気を回復させようとしても効果はほとんどないと発言している。 ロバート・B・ライシュは、エクルズが世界恐慌について分析した内容は、2007年からの世界金融危機にもそのまま当てはまると述べている。また中野剛志は、エクルズによる資本主義の不安定性や政府の役割についての指摘は理論的におおむね正しく、また、エクルズはデフレ期における政策レジームを転換させた人物であったとして評価している。 これに対してジャスティン・フォックス(英語版)は、エクルズは金融政策を重要視していなかったために1930年代に有効な経済政策が打てなかったと述べている。 現在の連邦準備制度理事会の建物は、エクルズにちなんで「マリナー・S. エクルズ連邦準備制度理事会ビルディング」(エクルズビル(英語版))と名付けられている。
※この「政策と評価」の解説は、「マリナー・エクルズ」の解説の一部です。
「政策と評価」を含む「マリナー・エクルズ」の記事については、「マリナー・エクルズ」の概要を参照ください。
政策と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 07:36 UTC 版)
士燮は隴江(英語版)南岸の𨏩𨻻(ルイラウ(英語版))に首府を置き、城内に河川から水路を引いていた。中央から交州に派遣された従前の漢人支配者と異なり、交州に土着化した士氏の支配は土着化した漢人支配層と現地の民衆の双方から支持を獲た。このため中央の混乱の影響もあって、長期に及ぶ支配を成立させた。士燮は南海交易によって利益を得、交州の特産品や輸入品を、朝廷や孫権に貢納した。士燮が官庁に出入りするときには楽器が鳴らされて香が焚かれ、士燮の後に続く行列の中には、交易に携わっていたと考えられる胡人(インド人)商人も含まれていた。銅鼓の文様が施された青銅洗(盆)は、士燮期のベトナム北部の出土品に見られる特徴である。 士燮の寛容な統治は交州の民衆に受け入れられ、政情が安定した交阯には戦乱を避けて多くの人間が移住した。交阯に逃れてきた者の中には、袁忠(中国語版)・鄧義・袁徽(中国語版)・桓邵(字は元将)・程秉・薛綜・許靖・劉巴らの名士も含まれていた。士燮は交阯に逃れてきた学者・知識人を保護し、現地の人々の教育に力を注いだ。こうした政策から、士燮はベトナムにおける中国文化の影響力拡大に、大きな役割を果たした人物だと見なされている。しかし、教化政策を実施した記録が後世の史料のみに現れる点から、士燮をベトナムの教化者とする観点を疑問視する意見もある。中世大越の史家の中には、士燮をベトナムに初めて漢字を導入した者と比定する者もいるが、士燮の時代以前に漢字が既に使用されていたという意見が多い。 交趾に移住した袁徽は荀彧に宛てた手紙の中で、士燮の高い学識と統治手腕を評価し、新代から後漢初期にかけて河西を支配していた竇融に勝る人物と称賛した。南越国の建国者である趙佗は、中央の衰退に乗じて独立政権を樹立し、学識を有する点で士燮と共通していたため、しばしば比較の対象に挙げられている。『三国志』の編者である陳寿は、士燮を趙佗以上の人物だと評価した。4世紀に葛洪が著した『神仙伝』には、一度死んだ士燮が仙人の董奉(中国語版)から与えられた丸薬によって、蘇生する逸話が収録されている。14世紀の陳朝大越で編纂された『越甸幽霊集(中国語版)』には、士燮が没してからおよそ160年余り後に晋代の交州に侵攻してきた林邑(チャンパ)の兵が彼の墓を暴いた時、遺体は生前と変わらない姿をしていたという伝説が収められており、この伝説は『神仙伝』の逸話が下敷きになったと考えられている。 後世のベトナムの人々からは士王(シー・ヴォン、ベトナム語:Sĩ Vương / 士王)と呼ばれて敬愛され、13世紀の陳朝の時代には仁宗によって「嘉応善感大王」、英宗によって興隆21年(1313年)に「嘉応善感霊武大王」に追封された。士燮が没した後に編纂された『三国志』には、士燮が生前に王と称されていた記述が存在していないことから、陳寿が士燮を南越王であった趙佗と比較したため、後世に「士王」の称号が生まれたと考えられている。『大越史記全書』の編者である呉士連らの史家により、18世紀まで士燮はベトナムの正統な王と見なされていた。後黎朝期の史官である呉時仕(中国語版)は、士燮の官職と事績を北属期の他の漢人統治者と比較して、従前の大越で受け入れられていた士燮の伝説的な事績を否定し、彼を「王」として特別視することなく『大越史記全書』から「士王紀」を削除した。だが、保大20年(1945年)のベトナム八月革命まで使用されていた漢文教育用の教科書には、ベトナムの教化者である士燮像が記載されていたため、「士王」のイメージは20世紀に至るまで民衆の間に残り続けた。しかしその後、クオック・グーの普及と漢文教育の衰退に伴ってシー・ニエップ(士燮)の名前は教科書から消え、2005年に改訂されたベトナムの歴史教科書にはその政策についての記述は存在していない。
※この「政策と評価」の解説は、「士燮 (交阯太守)」の解説の一部です。
「政策と評価」を含む「士燮 (交阯太守)」の記事については、「士燮 (交阯太守)」の概要を参照ください。
- 政策と評価のページへのリンク