政策と業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 07:17 UTC 版)
「シクストゥス5世 (ローマ教皇)」の記事における「政策と業績」の解説
次にシクストゥス5世は極度に悪化していた財政の建て直しを図り、一般職務の販売、貸付制度の創設、新税の導入を進めた結果、教皇庁の財政は一気に持ち直し、黒字へと転化した。こうした資金集めの方法の強引さに対しては批判が集まったものの、教皇は国庫に貯まった資金を緊急時の軍資金すなわち、十字軍や教皇領の防衛のための資金として確するよう努めた。また蓄積した資金を公共建築のためにも惜しみなく投資したため、5年という期間に比して手掛けられた事業の数は異例な数を記録した。たとえばサン・ピエトロ大聖堂にはドーム屋根が乗せられ、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂にはシクストゥスのロッジアが、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂にはプレセペのチャペルが建てられ、クイリナーレ、ラテランおよびバチカンの教皇宮殿が改修され、サン・ピエトロ大聖堂広場などに四本のオベリスクが建てられ、六本の新街路が建設され、6世紀頃に破壊されていたローマ水道を復旧し(フェリクス水道の建設)、多数の道路と橋が補修され、農業と工業が推奨された。失業者対策として、放置されていたコロッセオを紡織工場と従業員の住居の複合体として転用する計画も立案したが、これは事業が実現する前に教皇自身が死去し、後継の教皇が事業を引き継がなかったため実現には至らなかった。 しかし、このように高い関心を示した建築の分野でもシクストゥス5世が今日批判をまぬがれえない点がある。それは古代の建築物の取り扱いの杜撰さであり、たとえばトラヤヌスの柱とアントニウスの柱は聖ペトロ像と聖パウロ像の台にされ、カピトリーノの丘のミネルバ宮殿はキリスト教の都たるローマのシンボルに改造されてしまった。 シクストゥス5世の業績で忘れてはならないのは教会制度の整備である。彼の時代に枢機卿の定員は70人と定められ、修道会の数は倍増し、それぞれに職務や使命が振り分けられた。しかし一方で、依然としてイエズス会に対する姿勢は冷淡なものに留まった。 また、初めてバチカンに印刷局を設置し、その最初の事業としてヴルガータ訳聖書の校訂をおこなわせた。この事業はグレゴリウス暦の切り替えの研究でも委員長をつとめたシルレト枢機卿を中心とした委員会によっておこなわれたが、せっかちだったシクストゥス5世は委員会のやり方に我慢できず、自ら聖書本文を改訂して、ヴルガータ聖書の改訂版を発行、今後この版を用いるようにという勅書を出した。この版は「シクストゥス版」とよばれ、綿密な検討がおこなわれず急いで作られたものであったため評判が悪く、教皇没後に勅書の内容の取り消しと改訂作業のやり直しが決定された。改訂事業の中心となったイエズス会員ロベルト・ベラルミーノは教皇の名誉に傷をつけないため、1592年に完成した改訂版ヴルガータ聖書の名前に二人の教皇の名前を冠するかたちで『シクストゥス・クレメンティーノ版』と名づけた。
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