伊集院忠棟の斬殺とは? わかりやすく解説

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伊集院忠棟の斬殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 09:56 UTC 版)

庄内の乱」の記事における「伊集院忠棟の斬殺」の解説

慶長4年1599年3月9日伏見島津邸において島津忠恒伊集院忠棟斬殺した。伊集院忠棟は、島津義久筆頭家老であり、島津氏九州制覇のため活躍した功臣である。豊臣秀吉九州征伐の際は、豊臣氏島津氏兵力違い認識し早期降伏主張した降伏後は自ら人質となり上洛戦後理にあたり、島津氏存続貢献した。そのため、島津家代表的家臣認められ戦後処分でも秀吉から直接肝付一郡を拝領した文禄3年1594年)、島津家領内検地が行われると、伊集院氏豊臣秀吉から朱印をもって都城8万石給された。それまで都城領していた北郷氏北郷忠能幼少であったことと、朝鮮出兵軍役の不足があったこともあり、祁答院移され石高も69千石から37千石減らされた。また、忠棟は秀吉から直接命令を受け、検地後の知行配分責任者となったこのため家中の不満は忠棟に集中し家中を乱す「佞人」であるとも呼ばれた。また伊集院氏伏見の邸は島津氏宗家それよりも大きく国元では島津氏宗家乗っ取ろうとしているという風評もたった。 島津忠恒は、島津氏宗家当主義久の弟である島津義弘三男であったが、義久男子無くまた、忠恒の兄(鶴寿丸・久保)が若くして死去したため、義久三女である亀寿と結婚し島津氏宗家後継者となった豊臣秀吉死後朝鮮から帰国した忠恒に石田三成もしくは徳川家康伊集院忠棟叛意があることを伝えたという『日州庄内軍記』の記述があるが、それを裏付ける同時代史料はない。島津氏宗家相続の際、伊集院忠棟義久次女である新城の婿、島津彰久推奨しており、忠恒にとって忠棟は憎悪対象であったといえるまた、朝鮮の役出陣した忠恒らの遠征軍に対して国元からの補給が満足に行われなかった。忠棟は朝鮮出陣しておらず、忠恒らは補給不足の原因が忠棟にあると考えていた。ことなどもあり島津氏家臣からも深く恨まれていた。そこで忠恒は、義久義弘留守中に忠棟を呼び出し斬殺到ったのである島津氏にとっては家臣であるとはいえ朱印をもって都城8万石給されている、つまり豊臣政権側から島津氏から独立した大名として扱われていた忠棟を殺害したことは、豊臣政権対す反逆ともとれる行為である。忠恒は高雄山神護寺謹慎した。また忠棟の妻子東福寺移った当時実権握っていた徳川家康は、主君反逆した家臣成敗できるとして忠恒の行為支持しその結果忠恒は島津邸へ戻った義久は、忠棟殺害は忠恒の独断よるものであり、自分は全く関与していないと石田三成弁明している。しかし、後世の史料であるが『庄内陣記』には義弘・忠恒が共謀し義久同意与えたという記述があり、また、翌月の閏3月3日義久は、都城への通行遮断し島津氏家臣へ忠真に味方しないよう家臣から起請文取っている。

※この「伊集院忠棟の斬殺」の解説は、「庄内の乱」の解説の一部です。
「伊集院忠棟の斬殺」を含む「庄内の乱」の記事については、「庄内の乱」の概要を参照ください。

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