宗家相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 09:31 UTC 版)
延宝3年(1675年)閏4月29日、利久が10歳で夭折し、古河土井家は無嗣により絶家となった。しかし、第4代将軍徳川家綱は家祖利勝の功績を想い、特別の計らいをもって土井家再興を許し、分家していた利益に宗家相続を命じた。こうして5月晦日、利益は古河藩第5代藩主となり、7万石(自身が領していた下妻1万石と、一時断絶により4万石減封された古河6万石)を領した。延宝5年(1677年)、古河城南端の立崎曲輪に、城の鎮護として頼政神社を創建した。この地には源三位頼政を祀った塚があったと言われている。 知行が7万石に減少したため、利益は75名の家臣の解雇、残留した家臣に対しても1000石以上の者は4割を、それ以下は2割を削減している。ただし、分家時代の家臣の解雇(100石以上22名)や分家時代の家老らは対象外として逆に加増を受けるなど特別待遇を受けている。これは兄や弟の時代に古河藩土井家の重臣が藩主を傀儡にして藩政を操り、特に第4代藩主になるべき自分を差し置いて弟を擁立したことを遺恨に思っていたためとされ、利益は宗家の家臣に対しても「自らは養子とはいえ利勝公の実孫であり、藩主になれたのは徳川将軍家のお陰であり重臣らに恩義は受けておらず、自分の藩政に従えない者は藩から追放して奉公構とする」とまで宣言したという。
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