宗家家督を巡る内紛
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しかし島津宗家の家督を狙っていた実久はこの事態に不満を持ち猛烈に抗議し、忠兼と貴久との養子縁組を解消させようとした。そして、何よりも忠兼本人も貴久に守護職を譲ったことを後悔して5月には悔返を言い出すようになっていた。 大永7年(1527年)6月5日、忠良・貴久に対し加治木地頭の伊地知重貞、帖佐地頭の忠良の姉婿・島津昌久に兵を挙げさせ武力により排除・実権を握ろうと実力行動に出る。6月7日、忠良はすぐさま自ら討伐に赴き乱を鎮定。この間、実久は舅の川上忠克を忠兼のもとに派遣し守護職復帰を説かせた。実久は出水・串木野・市来の兵を率いて忠良方の所領、伊集院一宇治城・日置城を攻略。更には、加世田・山田の兵で谷山城をも攻略した。実久は鹿児島清水城にいた貴久に守護職の返上を迫る。6月15日、窮地に陥った貴久は死を以て城を守る気概であったが、園田実明の進言を受け入れ僅か8人の家臣と共に夜隠に紛れて鹿児島を脱出、田布施の亀ヶ城に逃れた。6月21日、忠兼は実久に迎えられ、還俗し勝久と名を改め、伊作から鹿児島に帰り再び守護職に復帰した。7月23日、忠良は勝久の隠居城となりその家臣の守っていた伊作亀丸城を翌朝陥落させ自身の居城とする。これより数年、自領の防備を固め、三州の情勢を観望し勢力を蓄える事となる。 享禄2年(1529年)、豊州家の島津忠朝、新納忠勝、禰寝清年、肝付兼演、本田薫親、北郷忠相、樺山幸久、運久らが鹿児島清水城に集まり、島津勝久に島津忠良と和解するよう求めるが失敗。 天文2年(1533年)3月27日、忠良・貴久は反攻を開始。2月に実久方に回った日置南郷城主・桑波田栄景攻めを行う。この戦いで忠良は南郷城を攻略する為、盲僧を間者として送り込み情報を集めさせ、城主が狩りで留守を知るや、猟夫の変装をした自らの軍勢を城主の軍勢と偽って入城し即日陥落させた。この時、忠良は南郷の地を「永吉」と改める。桑波田栄景は8月に永吉城(南郷城)奪回を計り鹿児島・吉田・日置等の実久軍兵を集め反撃を試みるが、内通で来襲に備え守備を固めていた忠良勢に負け敗走。同年12月、実久に攻略されて服従していた日置城主・山田有親は、忠良に領地を献じて降伏した。 天文3年(1534年)、勝久は自らの手で再び政務を執ろうとしたが歴代の臣を遠ざけ、俗曲戯芸に興じ政務を怠っていた。忠臣は連判の上、これを諫めたが聞き入れられなかった。このような状況で家臣の川上昌久は勝久近臣・末弘忠重を誅殺。勝久は一時、大隅根占に逃れた。翌年、川上昌久は勝久の命で自刃。勝久は鹿児島に戻る。しかし、こうした勝久の振舞いに対して島津宗家の老中(重臣)は実久を頼って勝久を排除する動きを見せた。天文4年(1535年)8月、実久方の兵は鹿児島を攻め街を炎上させ勝久は帖佐に逃れた。9月、勝久は祁答院重武、肝付兼利らとともに鹿児島を攻め攻略。谷山に進撃するが敗れて肝付兼利が戦死。10月、勝久は帖佐に移り、実久が鹿児島に入った。宗家の老中の支持を受けた実久は勝久に代わって守護を継承することになり、忠良・貴久親子との対立は避けられないものになっていった。 一方忠良は、伊集院・谷山・川辺などを転戦して薩摩半島の掌握に努めるとともに、勝久とも和解、さらに北薩摩の渋谷氏一族を味方につけて実久の本拠地出水と鹿児島間の道を寸断しようとした。天文8年(1539年)正月に加世田別府城の戦いで実久配下の軍を破り南薩をほぼ制した。同年8月、市来鶴丸城の戦いにおいて実久の弟・忠辰を討つと実久は本拠地出水へと撤退した。ここに及びようやく忠良・貴久親子は島津宗家の家督相続と守護職復帰を実現した。勝久は鹿児島を回復した貴久とも対立し、再び大隅に逃亡。封内施政の自信をなくし北原氏や北郷氏、さらには母方縁戚の大友氏を頼り豊後に落ちのびて行った。だが、鹿児島や薩摩半島以外の地域に貴久の支配を及ぼすには時間を要し、貴久が島津宗家代々の当主が任官されてきた修理大夫に補任され、室町幕府および朝廷から守護として正式に認められるのは、天文21年(1552年)のことになる。
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