宗家・彦根藩主家とは? わかりやすく解説

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宗家・彦根藩主家(掃部頭家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 02:54 UTC 版)

井伊氏」の記事における「宗家・彦根藩主家(掃部頭家)」の解説

1575年天正3年)、直親遺児井伊直政(後に徳川四天王1人となる)は今川氏滅ぼした徳川家康頼り多く武功をたて、1590年天正18年)には家康関東入府に伴い上野国箕輪12万石関ヶ原の戦いの後には近江国佐和山18万石与えられる直政死後、子の直勝は1604年慶長9年)に同国彦根築城した。この築城幕府諸大名御手伝普請命じたもので。直勝は1615年元和元年幕命により弟の直孝に藩主の座を譲った。直孝の代に30万石譜代大名となる。直勝は安中藩3万石藩主となった譜代大名筆頭として、江戸時代通じて直澄・直該・直幸・直亮・直弼5代6度(直該が2度。なお直孝・直澄が大老になったかどうか議論がある)の大老職を出したまた、堀田家雅楽頭酒井家本多家などの有力譜代大名転封繰り返す中、1度転封もなかった。 江戸時代末期藩主直弼老中阿部正弘死後大老となり、将軍後継問題では南紀派後援し一橋派への弾圧である安政の大獄を行うが、桜田門外の変暗殺された。その後幕政混乱責任直弼押し付けられる形で10万石を削減されたことから、大政奉還後、最後藩主直憲は譜代筆頭ありながら藩論転向し鳥羽・伏見の戦い以降戊辰戦争では徳川討滅急先鋒として新政府側に属して戦った。その功績により維新後明治2年1869年)には2万石の賞典禄下賜された。 同年華族制度成立する華族列するとともに版籍奉還彦根藩知藩事転じ1871年明治4年)の廃藩置県まで務めた華族令施行後明治17年1884年7月7日伯爵列した井伊伯爵家の邸宅東京市淀橋区角筈にあった井伊直憲伯爵死後、その次男井伊直忠爵位継承した井伊直忠伯爵の子井伊直愛は、井伊家旧領である彦根市市長1953年から9期わたって務めた現当主(18代)井伊岳夫彦根市役所勤務彦根城博物館長。17代直豪の長女裕子結婚して直豪の養子となり井伊家継承した

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