雅楽頭酒井家
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広親の次男とされる酒井家忠の家系は、代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り、雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれる。酒井雅楽助正親は左衛門尉家の忠次と同じく家康青年期の重臣のひとりで、三河統一の過程で西尾城主(西尾市)に取り立てられ、直臣最初の城主となる。 その子重忠は関東で武蔵国川越(埼玉県川越市)に1万石を与えられ、重忠の子忠世は前橋藩主、老中・大老となる。またその孫の忠清は大老となり、幕政において影響力を持った。忠世の子孫は姫路藩15万石の藩主となった。 また、重忠の弟の忠利は別家して取り立てられ、川越藩主、江戸城留守居・老中となる。忠利の子の酒井忠勝 (小浜藩主)は老中・大老になり、小浜藩12万3500石の藩主・官位も四位少将となった。 姫路酒井の酒井忠績は江戸幕府の最後の大老となる。明治28年(1895年)に死去、墓地は染井霊園であるが、近年、無縁墓となり、撤去が予定されている。 華族令施行後の1884年(明治17年)7月7日に小浜酒井家が伯爵、7月8日にはその分家の小大名だった加知山(勝山)酒井家、敦賀酒井家、姫路酒井家の分家の小大名だった伊勢崎酒井家が子爵に列したが、姫路酒井家は当時女戸主の酒井文子だったため叙爵が遅れ、1887年(明治20年)6月23日に酒井忠興の代に伯爵に叙された。さらに1889年(明治22年)5月11日には姫路酒井伯爵家の分家として酒井忠惇、酒井忠績も男爵に叙されている。 加知山(勝山)家の酒井忠勇子爵は学習院在学中より素行の悪さで有名になり、1899年(明治32年)には偽造手形行使の廉で公訴が提起されたのに伴い爵位を返上している。その後東京地裁で有罪になったが、東京控訴院では無罪となり、それに伴って忠勇の弟酒井朗が復爵を申請しているが、不許可となり、華族に戻ることはできなかった。 姫路酒井家の初代伯爵である忠興の後を継いだ酒井忠正伯爵は右翼運動に近づき、東洋人の自覚と文化の普及に努めるためとして亜細亜文化協会を結成し、後に黒維会となった。黒維会は1931年(昭和6年)の満州事変以降に親軍的反政党政治的「新官僚」運動の思想的な母体となった。1930年にドイツを訪問しナチス党の幹部ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書官と会談した忠正は機関紙『黒維』で「独逸国民社会党の真相」という論文を出すなど日本でも高まってきた国家社会主義運動を形式的模倣で終わらせないようナチス理解を広める役割も果たしていた。その後、黒維会は日本全国各地に勢力を伸ばし、当時日本領だった朝鮮半島にも勢力を広げた。戦後は一時公職追放になったが、日本相撲協会会長などを務めた。 姫路酒井伯爵家の邸宅は東京市小石川区原町、小浜酒井伯爵家の邸宅は東京市牛込区矢来町、伊勢崎酒井子爵家の邸宅は東京市小石川区高田老松町。敦賀酒井子爵家の邸宅は東京市牛込区矢来町、酒井忠惇男爵家の邸宅は東京市世田谷区玉川奥沢町にあった。
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