雅楽頭酒井家とは? わかりやすく解説

雅楽頭酒井家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 15:29 UTC 版)

酒井氏」の記事における「雅楽頭酒井家」の解説

広親の次男とされる酒井家忠の家系は、代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれる酒井雅楽助正親左衛門尉家の忠次同じく家康青年期重臣ひとりで三河統一過程西尾城主(西尾市)に取り立てられ直臣最初城主となる。 その子重忠は関東武蔵国川越埼玉県川越市)に1万石を与えられ、重忠の子忠世は前橋藩主、老中大老となる。またその孫の忠清は大老となり、幕政において影響力持った。忠世の子孫姫路藩15万石藩主となったまた、重忠の弟の忠利は別家して取り立てられ川越藩主、江戸城留守居老中となる。忠利の子酒井忠勝 (小浜藩主)老中大老になり、小浜藩123500石の藩主官位四位少将となった姫路酒井酒井忠績江戸幕府最後大老となる。明治28年1895年)に死去墓地染井霊園であるが、近年無縁墓となり、撤去予定されている。 華族令施行後1884年明治17年7月7日小浜酒井家が伯爵7月8日にはその分家の小大名だった加知山(勝山)酒井家敦賀酒井家姫路酒井家分家の小大名だった伊勢崎酒井家子爵列したが、姫路酒井家当時女戸主酒井文子だったため叙爵が遅れ、1887年明治20年6月23日酒井忠興の代に伯爵叙された。さらに1889年明治22年5月11日には姫路酒井伯爵家分家として酒井忠惇酒井忠績男爵叙されている。 加知山(勝山)家の酒井忠勇子爵学習院在学中より素行悪さ有名になり、1899年明治32年)には偽造手形行使の廉で公訴提起されたのに伴い爵位返上している。その後東京地裁有罪になったが、東京控訴院では無罪となり、それに伴って忠勇の弟酒井朗が復爵を申請しているが、不許可となり、華族に戻ることはできなかった。 姫路酒井家初代伯爵である忠興の後を継いだ酒井忠正伯爵右翼運動近づき東洋人自覚文化普及努めるためとして亜細亜文化協会結成し、後に黒維会となった。黒維会は1931年昭和6年)の満州事変以降に親軍的反政党政治的「新官僚運動の思想的母体となった1930年ドイツ訪問しナチス党幹部ヨーゼフ・ゲッベルス秘書官会談した忠正は機関紙『黒維』で「独逸国民社会党真相」という論文を出すなど日本でも高まってきた国家社会主義運動形式的模倣で終わらせないようナチス理解広め役割果たしていた。その後、黒維会は日本全国各地勢力伸ばし当時日本領だった朝鮮半島にも勢力広げた戦後一時公職追放になったが、日本相撲協会会長などを務めた姫路酒井伯爵家の邸宅東京市小石川区原町小浜酒井伯爵家の邸宅東京市牛込区矢来町伊勢崎酒井子爵家の邸宅東京市小石川区高田老松町敦賀酒井子爵家の邸宅東京市牛込区矢来町酒井忠惇男爵家邸宅東京市世田谷区玉川奥沢町にあった

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