宗家論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:02 UTC 版)
福井松平と津山松平の間には越前松平宗家をめぐる論争が江戸時代からあった。結城秀康の長男の系統であるという「名」で宗家を主張する津山と、秀康系の中で最大の表高を持つという「実」で宗家を主張する福井の争いだった。決着はつかず、寛保年間に幕臣の菊池弥文が諸侯格付けをまとめた『柳営秘鑑』は福井家を「本家」、津山家を「嫡家」とする曖昧な表現をしている。一方官位や江戸城内における殿席では福井の方がやや上級扱いされていた。 しかし結局福井と津山の宗家論争は明確な答えのないまま明治維新を迎えた。維新後1884年(明治17年)までは福井も津山も同じ華族として家格の上下なく一つにまとめられていたことから宗家争いは無益になり、いったんは収束した。 しかし1884年(明治17年)の華族令施行により華族に五爵制が導入され、福井(伯爵→侯爵)と津山(子爵)の間に明確な家格差が付けられたことでこの論争が再燃した。特に1888年(明治21年)に福井松平が侯爵に陞爵した後に津山松平が熱心に陞爵運動を行うようになった。東久世通禧書簡の中に「故確堂家 越前本家にて伯爵之事」という一文があり、津山が越前松平の「本家」であることを理由にして伯爵陞爵運動をやっていたことが確認できる。津山の松平康民子爵の伯爵陞爵請願は明治から大正にかけて実に8回に及ぶが、いずれも不許可に終わっている。
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