伊集院氏の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 09:56 UTC 版)
乱終結後も、忠恒は忠真を警戒し続けた。事実、忠真は肥後国の加藤清正に対し仇を討つための助力を願う密使を送っている。しかしその密書を託された伊集院甚吉は忠恒に密書を渡した。忠恒のみならず家康も忠真に立腹したが、もはや島津の敵ではあるまいとこの場は許すに至っている。また、清正の方も忠真と連絡を取っていたことが発覚し、家康は清正にも立腹して上洛を禁じて領国での謹慎を命じ、会津征伐への参加を認めなかった。その結果、清正は関ヶ原の戦いとその前後の時期を主戦場から遠く離れた九州で戦うことになった。 しかし、関ヶ原の戦い後の慶長7年8月17日(1602年10月2日)、忠恒は上洛に際し忠真に同行を命じ、日向国野尻で狩りを催した際、これを射殺した。忠真は島津家臣の平田平馬(平田新次郎宗次)と馬を交換していたため、誤って平馬も殺された。対外的には忠真殺害も誤射として片付けられ、実行犯の押川治右衛門(押川則義)と淵脇平馬は切腹を命じられたが、計画的な暗殺だった。同日に忠真の母と弟三人も殺された。なお、平田平馬の死亡も、平田平馬の父・平田増宗がかつて島津家の家督に島津信久(久信)を推したことから、やはり忠恒による計画的暗殺の一環であったという説もある。信久擁立は、忠真が主導していたという。
※この「伊集院氏の滅亡」の解説は、「庄内の乱」の解説の一部です。
「伊集院氏の滅亡」を含む「庄内の乱」の記事については、「庄内の乱」の概要を参照ください。
- 伊集院氏の滅亡のページへのリンク