伊集院忠真の降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 09:56 UTC 版)
家康は再度山口直友を使者として遣わし調停を行った。直友は、義久と忠恒から「忠真が降伏すれば今までどおり召抱える。」という証文をとり、これを忠真に提示し降伏を促した。 慶長5年(1600年)2月6日、志和地城が降伏した。その後、他の外城も順次降伏し、忠真は、家康の調停を受け入れ、3月15日、降伏した。降伏後、忠真は頴娃1万石へ移され、後に帖佐2万石へ移された。都城には旧領主であった北郷氏が復帰し乱は終結した。宮本義己は、乱が近隣大名の出勢や戦禍の拡大もなく収束を見たのは、島津氏が「内府」家康の調停を「公儀」のそれと合点したからで、伊奈や山口といった直臣に加え、寺沢のような「公儀取次」を使役し、紛争近隣大名の動員体勢を調えたうえでの調停であったわけで、その大儀も、下克上を否定し、天下の秩序を維持するという全国統治権に根ざした紛争鎮圧にあったから、秀吉による「惣無事」と全く同質の政策であったとし、豊臣政権の公儀(全国統治権)に根ざしたものと分析しており、山本博文の家康が庄内の乱に介入し「公儀」の立場を利用した勢力拡大を進めていくのであるとする解釈を家康が当初から秀吉の遺言を無視していたという通説に基因したもので一方的に過ぎると見なさざるを得ないと批判をしている。 また毛利輝元が乱の解決に対処しようと、何らかの努力を試みようとしていたことが指摘されている。 翌年の慶長6年、島津家では一向宗禁止令が出され(義久、義弘、忠恒の連名による正式な通達として)、その後の「かくれ念仏」の原因となった。この政策は、忠棟が熱心な一向門徒であったことが関係しているとする説がある。
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