マリヤ・シュヴァルノヴナとは? わかりやすく解説

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マリヤ・シュヴァルノヴナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/21 10:17 UTC 版)

マリヤ・シュヴァルノヴナ
Мария Шварновна
ウラジーミル大公

出生 1158年
死去 1205年/1206年3月19日
配偶者 ウラジーミル大公フセヴォロド3世
子女 一覧参照
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マリヤの所有物といわれる装飾品(ズメエヴィク)。1890年にスーズダリで発見された。

マリヤ・シュヴァルノヴナロシア語: Мария Шварновна1158年頃 - 1205年 / 1206年3月19日[1])は、ウラジーミル大公フセヴォロドの最初の妻である。正教会聖人

生涯

マリヤはヤス人(Яс / オセット人の旧称)の公女であるとされているが、後世の史料に基づきモラヴィア出身とみなす説もある[2]。前説の、マリヤがカフカス出身とする場合、夫となるフセヴォロドとの出会いはおそらく1169年か1170年のグルジアであると推測される。なおマリヤをカフカス出身とする説中の一説によれば、マリヤの3人の姉妹も、アンドレイ・ボゴリュブスキームスチスラフ・スヴャトスラヴィチヤロスラフ・ウラジミロヴィチの3人のルーシの公に嫁いだという[3]。いずれにせよ、夫のフセヴォロドがウラジーミル大公となった1176年には既に結婚しており、1178年には2人の間に最初の子が生まれている。マリヤは4人の娘・8人の息子[2]を産んだ。息子のうちの4人がのちにウラジーミル大公位に就いている。

大公妃となったマリヤは書籍・学問・芸術を庇護し、その信心深さと聡明さによって、後世にはキエフ大公妃オリガやビザンツ皇后テオドラ(共に正教会の聖人)と並び称されることになった。末子のイヴァンの誕生(1197年)後に重病を発し、修道院の建設の誓いを立てた。1200年[4]、その誓いに従いウラジーミルに、後世にはマリヤを称える名を冠されることになる修道院(ru)(現ロシアでУспенский Княгинин монастырьと呼ばれている。転写と直訳:ウスペンスキー(生神女就寝)・クニャージニン(公妃)・モナストィリ(修道院)。)を建設した。

マリヤという名は、死の18日前に剃髪式(постриг)を行い、修道名として得た名前である。

子女

脚注

注釈

  1. ^ スノフスク」は、現ウクライナ・セドニウにあったチェルニゴフ公国の一都市(現存せず)。

出典

  1. ^ Мария Шварновна // Большая биографическая энциклопедия
  2. ^ a b Всеволод-Димитрий Юрьевич Большое Гнездо // ブロックハウス・エフロン百科事典 — СПб., 1890—1907.
  3. ^ Карамзин Н. М. История государства российского. — Т. III. : М. Наука, 1991. — С. 535, прим. 62.
  4. ^ Княгинин-Успенский монастырь // ブロックハウス・エフロン百科事典 — СПб., 1890—1907.



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