「世界の修復者」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 19:19 UTC 版)
「ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス」の記事における「「世界の修復者」」の解説
シュリアやパレスチナなどのローマの東方属州を支配するパルミラ帝国は、アウレリアヌスをローマ帝国全体の皇帝として認めていたものの、国王であるウァバッラトゥス(ゼノビアの息子)もまた「皇帝(アウグストゥス)」を自称していた。アウレリアヌスはパルミラへ降伏を呼びかけたものの、抗戦の姿勢を示したことから、272年にアウレリアヌスは軍を率いてパルミラ領へ入った。 ビザンティウムとティアラで抵抗があったものの、これを下し降伏後に寛大な処置を取ったことから、多くの都市が無血で開城した。パルミラ軍とはアンティオキアおよびエメサ近郊での2度の戦闘にいずれも勝利を収めた(ウァバッラトゥスはこの際に戦死したともされる)。ゼノビアはパルミラ市へ籠城して、ローマ軍の兵站切れを狙ったものの、エジプトを制圧したプロブス軍がパルミラへ来援して補給路を確立させたことから、不利を察したゼノビアはペルシア(サーサーン朝)への逃亡を図ったが、ユーフラテス河畔でゼノビアを捕虜とした。こうしてパルミラ王国を崩壊に追い込み、東方属州の回復に成功した。また、パルミラ王国の崩壊後にエジプトで皇帝を僭称し、ゼノビアの盟友を自称したフィルムスを破った。 パルミラで勝利を収めたアウレリアヌスは東方をプロブスに委ね、西方属州に割拠していたガリア帝国に目を向けた。274年、ガリア皇帝テトリクス1世は帝位を返上してガリア帝国をローマへ復帰させることを望んでいたため、アウレリアヌスと示し合わせた上で、シャロン=アン=シャンパーニュで対陣した後にローマへ降伏した。こうして西方属州もローマ帝国へ復帰することとなった。 アウレリアヌスは三分されていた帝国を再統一することに成功、274年ローマに於いて凱旋式を挙行、この際に征服した各民族と共にゼノビアを連行したことで話題を集めた。また、これら一連の功績により元老院から「"Restitutor Orbis" /レスティトゥトル・オルビス(世界の修復者)」の称号を得た。
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