「世界に通用する強い馬づくり」- ジャパンカップ創設とは? わかりやすく解説

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「世界に通用する強い馬づくり」- ジャパンカップ創設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:02 UTC 版)

日本調教馬の日本国外への遠征」の記事における「「世界に通用する強い馬づくり」- ジャパンカップ創設」の解説

ワシントン国際ヨーロッパ遠征では一向に芳しい成績が挙がらなかったが、日本一部関係者の間には、この成績彼我実力差ではなく未熟な輸送技術不慣れな馬場による問題であるとする見方根強く残っていた。その一方で競馬会から遠征サポート行っていた職員らは、現場におけるそうした楽観的態度焦燥感募らせていた。当時日本競馬好景気のなか多額売り上げ記録していたが、肝心競馬レベル人気追いいていないとみた競馬会業務部では、諸国強豪日本招待して行う国際競走創設図られるうになる1970年、ふたりの職員がその準備のためアメリカヨーロッパ諸国巡り帰国後に競走諸条件整え役員会で諮られたが、前年より実施され競走馬輸入自由化に対して国内生産者からの激し反発起こっており、この情勢配慮して国際競走創設一時棚上げされることになった。 その計画が再び動き始めたのは1978年のことである。このころ競馬会内部では「強い馬づくり」という合言葉のもと、業務部獣医防疫などに関わる馬事部が一体となって日本馬世界通用する水準引き上げなければならないという意見活発化していた。競走当初東京インターナショナル」の予定名で計画され諸条件整えられていったが、第1回競走招待国からは、特に高水準競馬が行われているイギリスアイルランドフランスといったヨーロッパの国々外され、その一方で日本主導して設立された「アジア競馬会議」への配慮という側面から、逆に相当水準落ちとみられるインドトルコの2カ国が加えられた。また、これも高水準であろうとみられたオーストラリアニュージーランドの2カ国は、防疫上の理由から招待が叶わなかった。いびつな招待国顔ぶれ明らかになると、その計画に対して出発点から間違っている」「なんのための国際競走なのか」という批判生まれた計画側も元より同じ心情抱いていたが、具体的に盛り上がった開催への機運逃さないため、理想近づけるよりも一度開催実績作ることを優先した内容であったという。 世界一流競走馬門戸を開いた国際レースをもたず、"鎖国競馬"といわれ続けてきた日本の競馬界が初めて"世界"を実感した衝撃的な出来事であったこれを機に国内生産者の保護育成テーマにしてきた日本の競馬もいよいよ世界通用する強い馬づくりという新し時代テーマ挑戦することとなった。この第1回ジャパンカップ国際化第一歩であり、その後徐々に国際化進められ日本の競馬水準次第高まっていくのである日本馬主協会連合会 施行前年競走名は予定の「東京インターナショナル」から「ジャパンカップ」へと改められ1981年11月21日東京競馬場でその第1回競走施行された。「遠征検疫馬場の差といった有利な条件もあり、日本馬でも勝負になるのでは」といった楽観的な見方もあったが、結果北米GII級の馬たちに1着から4着までを占められ2400メートル日本レコードを0秒5更新されるという日本勢完敗内容であり、テレビ中継では実況アナウンサーが「日本は完全に敗れました」と叫んだ第1回衝撃的な内容日本競馬関係者意識変革迫った以後ジャパンカップやってくる外国勢は、従来日本ではみられなかった調教法外国人騎手たちの厳しレース運びファン前に姿を現す厩務員身だしなみに至るまで、日本の関係者にとっては絶好教材となっていく。また、競馬会組織にはジャパンカップ推進国際化対応するための「国際室」が新設され1984年行われた離別体系確立グレード制導入といった大きな改革ジャパンカップ施行契機として行われたヨーロッパオセアニアからも招待成功した第2回前年同様に4着までを外国馬占めたが、第3回では2着に日本馬入り第4回競走において日本カツラギエース初優勝果たした。 その一方で国外へ遠征という面においてはジャパンカップは「こちらから出向かなくても相手来てくれる」、「ジャパンカップ勝負ならない馬を国外へ連れて行っても」といった消極的な態度誘発した白井透はこれを「ジャパンカップ逆効果」「国際化への足かせ」と評したジャパンカップ創設後しばらく、積極的に国外遠征行ったのは従来から遠征意欲旺盛なシンボリ牧場和田共弘と、吉田善哉率い社台ファーム社台グループ)のみであった1980年代半ばから後半シンボリ牧場シリウスシンボリを、社台グループギャロップダイナを、それぞれ長期ヨーロッパ遠征送ったが、いずれも勝利を挙げることはできなかった。また1986年には日本競馬史上最強との呼び声高かったシンボリルドルフアメリカサンルイレイステークス臨んだが、7頭立て6着と敗れている。翌1987年5月シリウスシンボリフランスで出走し以降日本馬国外遠征一時止むことになる。合田直弘はこれについて「シンボリ社台が本気でやって勝負ならないんだからと腰が引けた」と指摘している。

※この「「世界に通用する強い馬づくり」- ジャパンカップ創設」の解説は、「日本調教馬の日本国外への遠征」の解説の一部です。
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