「世界に通用する強い馬づくり」- ジャパンカップ創設
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「日本調教馬の日本国外への遠征」の記事における「「世界に通用する強い馬づくり」- ジャパンカップ創設」の解説
ワシントン国際やヨーロッパ遠征では一向に芳しい成績が挙がらなかったが、日本の一部関係者の間には、この成績は彼我の実力差ではなく、未熟な輸送技術や不慣れな馬場による問題であるとする見方も根強く残っていた。その一方で競馬会から遠征のサポートを行っていた職員らは、現場におけるそうした楽観的態度に焦燥感を募らせていた。当時、日本競馬好景気のなか多額の売り上げを記録していたが、肝心の競馬のレベルが人気に追いついていないとみた競馬会業務部では、諸国の強豪を日本へ招待して行う国際競走の創設が図られるようになる。1970年、ふたりの職員がその準備のためアメリカとヨーロッパ諸国を巡り、帰国後に競走の諸条件を整え役員会で諮られたが、前年より実施された競走馬の輸入自由化に対して国内生産者からの激しい反発が起こっており、この情勢に配慮して国際競走創設は一時棚上げされることになった。 その計画が再び動き始めたのは1978年のことである。このころ、競馬会の内部では「強い馬づくり」という合言葉のもと、業務部と獣医・防疫などに関わる馬事部が一体となって日本馬を世界に通用する水準に引き上げなければならないという意見が活発化していた。競走は当初「東京インターナショナル」の予定名で計画され、諸条件が整えられていったが、第1回競走の招待国からは、特に高水準の競馬が行われているイギリス、アイルランド、フランスといったヨーロッパの国々が外され、その一方で日本が主導して設立された「アジア競馬会議」への配慮という側面から、逆に相当水準が落ちるとみられるインド、トルコの2カ国が加えられた。また、これも高水準であろうとみられたオーストラリア、ニュージーランドの2カ国は、防疫上の理由から招待が叶わなかった。いびつな招待国の顔ぶれが明らかになると、その計画に対して「出発点から間違っている」「なんのための国際競走なのか」という批判も生まれた。計画側も元より同じ心情を抱いていたが、具体的に盛り上がった開催への機運を逃さないため、理想に近づけるよりも一度開催実績を作ることを優先した内容であったという。 世界の一流競走馬に門戸を開いた国際レースをもたず、"鎖国競馬"といわれ続けてきた日本の競馬界が初めて"世界"を実感した衝撃的な出来事であった。これを機に国内生産者の保護育成をテーマにしてきた日本の競馬もいよいよ世界に通用する強い馬づくりという新しい時代のテーマに挑戦することとなった。この第1回ジャパンカップが国際化の第一歩であり、その後徐々に国際化が進められ、日本の競馬水準は次第に高まっていくのである。 日本馬主協会連合会 施行前年に競走名は予定の「東京インターナショナル」から「ジャパンカップ」へと改められ、1981年11月21日、東京競馬場でその第1回競走が施行された。「遠征、検疫、馬場の差といった有利な条件もあり、日本馬でも勝負になるのでは」といった楽観的な見方もあったが、結果は北米のGII級の馬たちに1着から4着までを占められ、2400メートルの日本レコードを0秒5更新されるという日本勢完敗の内容であり、テレビ中継では実況アナウンサーが「日本は完全に敗れました」と叫んだ。 第1回の衝撃的な内容は日本競馬関係者に意識変革を迫った。以後もジャパンカップにやってくる外国勢は、従来の日本ではみられなかった調教法、外国人騎手たちの厳しいレース運び、ファンの前に姿を現す厩務員の身だしなみに至るまで、日本の関係者にとっては絶好の教材となっていく。また、競馬会の組織にはジャパンカップ推進と国際化に対応するための「国際室」が新設され、1984年に行われた距離別体系の確立、グレード制導入といった大きな改革もジャパンカップ施行を契機として行われた。 ヨーロッパとオセアニアからも招待に成功した第2回は前年同様に4着までを外国馬が占めたが、第3回では2着に日本馬が入り、第4回競走において日本のカツラギエースが初優勝を果たした。 その一方で国外への遠征という面においては、ジャパンカップは「こちらから出向かなくても相手が来てくれる」、「ジャパンカップで勝負にならない馬を国外へ連れて行っても」といった消極的な態度を誘発した。白井透はこれを「ジャパンカップの逆効果」「国際化への足かせ」と評した。ジャパンカップ創設後しばらく、積極的に国外遠征を行ったのは従来から遠征意欲旺盛なシンボリ牧場の和田共弘と、吉田善哉率いる社台ファーム(社台グループ)のみであった。1980年代半ばから後半、シンボリ牧場はシリウスシンボリを、社台グループはギャロップダイナを、それぞれ長期ヨーロッパ遠征へ送ったが、いずれも勝利を挙げることはできなかった。また1986年には日本競馬史上最強との呼び声高かったシンボリルドルフがアメリカのサンルイレイステークスに臨んだが、7頭立て6着と敗れている。翌1987年5月にシリウスシンボリがフランスで出走して以降、日本馬の国外遠征は一時止むことになる。合田直弘はこれについて「シンボリと社台が本気でやって勝負にならないんだからと腰が引けた」と指摘している。
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