調教法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 03:25 UTC 版)
記者の井上康文が藤吉に「調教の秘訣」を尋ねた際、藤吉は「各人各様のやり方がある」「馬と相談しなければならない、馬の能力を知らなければならない」などと語ったのみで、井上が調教を観察したところでもメニューは適宜に変えられていた。保田隆芳によると、彼が入門した1934年ごろには長距離を乗るイギリス式の調教が競馬界全体の主流で、尾形厩舎の場合、馬は外厩を出て東京競馬場まで10~15分ほど歩き、東京競馬場に入ってから30分ほど動かし、コース(1周2000メートル)に入ってからは速歩で1周、駈歩で2周半の計7000メートルが通常メニューであり、追い切りでもコース1周を追うことが普通だった。これは1970年代半ばから普及していく短距離で済ませるアメリカ式の調教とは大きく異なるが、当時としては主流の調教法であった。また、府中の尾形宅は高低差の大きな坂道の底にあり、藤吉は坂の上り下りが鍛錬になると見越してここで引き運動も行わせていた。藤吉は太平洋戦争前後の時期、友人でもあった伊藤勝吉と「東の尾形、西の伊藤」と並び称されたが、この言葉は大勢力であることのほかに、調教の運動量の多さも表していたとされる。 藤吉は1953年に公務として津軽義孝とアメリカまで馬の買い付けに赴き、現地の競馬を見聞したが、「馬の調教や騎乗については、日本もアメリカもそう変わりなく、参考になることはあまりなかった」との感想を残している。一方でスピード感に富んだアメリカ特有の競走内容については「見習う点がある」とし、軍馬改良の思想から始まり、耐久力を重視してきた日本の競馬も変化していくべきではないかとの提言も行っていた。 また、藤吉の調教の妙を物語る逸話として、次のようなものがある。1967年、当時開業2年目であった孫弟子の伊藤雄二が管理馬ハイドルを擁して日本ダービーへ臨むに当たり、関東での管理を藤吉に依頼した。しかし東上前に行った削蹄に狂いがあり、ハイドルの前脚は腫れ上がってしまっていた。これを見た藤吉は、装蹄師に適宜削蹄の指示を与えつつ1日も調教を休むことなく、ダービー当日までに腫れをすっかり引かせてしまった。日本ダービーでハイドルは23着と大敗したものの、伊藤は大きく目を開かされたという。また、このとき藤吉が自宅で伊藤に語って聴かせた「精神論と具体的方法を併せ持つ話」は、伊藤の競馬論の「根底のテキスト」になったという。伊藤は2014年に松山吉三郎の子・松山康久とともに調教師顕彰者に選出された。
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